中山忠光 のバックアップ(No.1)
中山忠光とは、公卿の一人である。 画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%BF%A0%E5%85%89 安政五年(1858年)、忠光14歳のとき、これまで中山家で育てられていた祐宮が宮中に戻ると、忠光は侍従として付き従い、宮中に赴いた。 とはいえ、気性の荒さは忠光の生まれもった性格だけが原因ではなく、中山家の家庭環境もその一因である。中山家は祐宮誕生の際に産屋を建てる金が無く、多額の借金をしていた。そのうえ、宮廷も貧しく、侍従としてお仕えしていた時に目の当たりにした祐宮の質素な生活が忠光の王政復古を掲げた過激な攘夷論に火を付けたと思われる。 更に、彼の気性の荒さに火をつけたのが、『孝明天皇の異母妹・和宮親子内親王の徳川将軍家への降嫁』という出来事である。 確かに『四奸二嬪』の殺害こそ諦め、文久三年(1863年)の二月から国事寄人に就任し、政務にあたっていたものの、同年三月に土佐藩士・吉村寅太郎の誘いを受け、加茂行幸に供奉してからこっそり京を脱出し、摂津沿岸を経て長州まで逃げた。名を「森秀斎」と名乗り、この年の五月に発生した馬関戦争に参加した。この戦争には敗北したが、忠光は自ら軍艦・庚申丸に乗り込んで外国船を砲撃している。しかし、勝手に京都を離れるのは大罪なので、忠光はそれまで勤めていた国事寄人を罷免され、従四位下の官位返上の沙汰が下っている。 そうして、彼らにとってのビッグニュースが舞い込んできた。八月十三日に大和行幸が実行されることが決定し、攘夷親征の詔勅が出されたのである。 しかし、彼らの天下は『三日天下』ならぬ『五日天下』で終わってしまった。 忠光ら『本隊』は各所を転戦したが、いたるところ敗戦であった。そうして『鷲家口の戦い』で多大な犠牲を払いつつも、忠光はどうにか長州に逃げ延びることができた。 この年の十一月十五日、豊浦郡田耕村の山の中で、忠光は幕府恭順派の5人の長州藩士に暗殺された。享年はわずか20才であった。その後、時勢の変化もあり、長府藩内(現:山口県下関市綾羅木)に建てられた墓を中心に作られた中山神社に祭神として祀られている。 コメント
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