勝海舟 のバックアップ(No.1)
勝海舟は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した幕臣・海軍卿である。 幼年期
旗本・勝小吉の長男として江戸本所に生まれた。幼名は麟太郎。父親は幕臣の中でも身分が低く、おまけに放蕩者であったため生活は困窮を極めていたが、窮地に陥っている者には理由がどうあれ救いの手をさしのべるという義侠心に富み、自身より立場が上の人物にも歯に衣着せぬ物言いをする性格から、市井の多くの人にヒーローとして慕われたという。 青年期
剣の師の島田は、蘭学者の伊東玄朴(佐賀藩出身)と親交があった縁で、「剣術は基本として必ず学ぶべきことだが、それだけでは列強との合戦になった場合、銃火器を用いる列強の侵略からわが国を守ることはできない。まずは西洋の学問を学び、そこから兵術と呼べるものを広く学びなさい」と麟太郎青年に西洋式兵術の収得を勧めた。当初、麟太郎青年は、蘭学の大家とされた岡山藩の 渡米
安政7年(1860年)、幕府は日米通商条約の批准のために施設をアメリカに派遣したが、これに勝も同行することとなった。勝は妻子に「ちょいと品川まで行ってくらぁ」と言い残して咸臨丸に乗船し、太平洋に乗り出した。勝は艦長として乗船したが、指導は提督の木村芥舟や米国人・ブルックらの船員が行った。この措置にプライドをいたく傷つけられ、またひどい船酔いを患っていた勝は航海中は何もできず、到着するまで自室にこもっていたという。 幕末の動乱へ
文久2年(1862年)、勝は政治の中枢にカムバックすることができた。薩摩藩国父・島津久光が勅使・大原重徳とともに江戸に下向し、一橋慶喜を将軍貢献職に、福井藩主・松平春嶽を政事総裁に据えた。松平が大久保一翁を復帰させ、大久保が勝を復帰させたことで、勝は軍幹部行並に抜擢された。 江戸城無血開城
慶応四年(明治元年、1868年)、戊辰戦争の開始および鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北し官軍の東征が始まると、幕府の要職を罷免されていた勝は、かつての勝の能力を高く評価していた老中・板倉 維新後の勝
徳川幕府の死に水をとった勝だが、維新後は徳川宗家や旧幕臣の名誉回復のため奔走している。明治二年(1869年)に安房守となって外務大丞、兵部大丞に任じられ、明治五年(1872年)には海軍卿に就任し、海軍の発展に尽力した。これらの働きにより、山岡鉄舟や榎本武揚、大鳥圭介など旧幕臣の人材を政界に呼び寄せることに成功した。 コメント
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