吉田松陰 のバックアップ(No.1)

吉田松陰とは、長州藩出身の兵学者である。
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画像出典:
【生没年】1830-59
【出身地】長州


 長州藩士・杉百合之助の次男。幼少期や青年期は「杉寅之助」と名乗った。誕生後ほどなくして天然痘に罹患し、一時生死の境をさまよう。幸い一命をとりとめたが、顔にあばたが残り、このあばたは終生消えなかったという。数えで4歳のころ、叔父の山鹿流兵学師範・吉田大助の養子となり兵学を学ぶが、大助はこのころ結核を患っており、寅之助の養子入りから1年後、講義中に吐血して壮絶な最期を遂げた。大助亡き後はもう一人の叔父・玉木文之進が開いた萩の松下村塾でスパルタ英才教育を受けた。講義の場では自らを「叔父上」ではなく「先生」と呼ぶことを強い、寅之助は少々頬を掻いただけでも怒鳴りつけられ、「教科書のページの開き方が悪い」という理由で殴りつけられることもしばしばあった。あまりの教育の苛烈さに、「女性である」ということで口出しを一切許されなかった松陰の母・タキは松陰が死んで楽になることさえ願ったほどであった。寅之助も長じてのちは「死ななかったのが不思議なくらい、それはそれは厳しいものでした」と述懐している。しかし、ひとたび抗議の場を離れれば、文之進は松陰をなめるようにかわいがったといい、前述の教育の苛烈さは文之進の嗜虐性に基づくものではなく、愛情ゆえのものであった。それを寅之助は理解していたから、叔父を尊敬こそすれ、憎みはしなかったのである。
 6歳になってからは吉田家を継ぎ、吉田大次郎のち「吉田寅次郎」と名乗り、文之進の教えを得て兵学や史学を修めた。その神童ぶりから、若輩ながら英明な君主・毛利敬親に抜擢され、9歳の時には藩校・明倫館の教授に就任し、弱冠13歳にして西洋艦隊撃滅演習などを行っている。15歳で山田亦介*1より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流と長沼流を修めた。
やがて、アヘン戦争のニュースを耳にし、自身の学んできた兵学が時代に追い付いていないことを痛感した寅次郎は、平戸や江戸に遊学した。平戸では葉山左内に、江戸では佐久間象山に出会い、西洋の兵学や蘭学を学んだ。
嘉永5(1852)年には同志の熊本藩士・宮部鼎蔵とともに東北旅行を計画するが、寅次郎は「藩の制度よりも友人との約束の方が大事です」とばかりに藩庁から通行手形が発行・支給されるのを待たずに脱藩し、東北遊学に赴いた。しかし江戸で拘束され、長州に強制送還されたのちに脱藩の罪で軍学師範を解雇させられた。しかし、藩主・毛利敬親は寅次郎の才能を気に入っていたため、「父親の育み(正武士の部下)に降格」という名目で寅次郎の罪を許した。
安政元(1854)年、前年のペリー来航のニュースに触発されてから抱いていた海外密航の計画を実行するため、漁師の船を盗んで同志の金子重之輔とともに下田港のアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込もうとしたが、拒絶され一時的に金子とともに伝馬町に投獄された。そうして、長州に帰され、萩の野山獄に入獄となった。なお、金子は伝馬町の牢獄の劣悪な環境により体調を崩し、野山獄に護送されてからほどなくしてこの世を去っている。なお、師の佐久間象山も「寅次郎の荷物に密航を応援する象山の手紙が入っていた」という理由で一時投獄されている。とんだとばっちり
ここで富永有隣(出獄後、松下村塾の教員として松陰に協力)や高須久子と知り合い、寅次郎は囚人たちや牢番に対して論語などの講義を行った。牢番の方も寅次郎がかつて藩の兵学師範だったことを知っており、罪人であるにもかかわらず、寅次郎を丁重に扱い、師匠として寅次郎を尊敬していた。寅次郎はただ教える立場に飲み立っていたわけではない。本草学に精通していた囚人からは薬草と毒草の見分け方や処方の仕方を教わり、久子からは日本各地の民話(現在でいうなら「民俗学」に該当する)について教わった。この「一方的に教えるのではなく、皆で一緒に学ぶ」という姿勢は、のちの「松下村塾」にも受け継がれている。
 出獄後は「寅次郎」名義で大っぴらに私塾の開設などを行うことを憚って「松陰」を名乗り、、かつて自身も幼少期に学び、閉業状態にあった「松下村塾」を復活させた。この「松下村塾」からは久坂玄瑞?高杉晋作伊藤俊輔?(博文)、[吉田稔麿?入江九一?・[野村靖]]兄弟、[佐世八十郎?(前原一誠)、品川弥二郎?山田顕義?など、乱世を生き抜いたそうそうたる顔ぶれを輩出している。尚、しばしば誤解されるが、桂小五郎(木戸孝允)や山県有朋?はいずれも明倫館時代の生徒で、松下村塾出身者ではない。また、松下村塾生との交友関係があった[志道聞多>井上馨]](井上馨)は松下村塾出身者でも明倫館出身者でもない。
 安政4(1858)年、江戸幕府が外国との不平等条約を無勅許で締結したことに激怒し、老中・間部詮勝を条約締結の首謀者とみなし、間部に状焼き破棄を迫り、もし間部がこれを拒絶すればすぐにでも間部を討ち取る計画を考えるようになる。そのために藩に武器や弾薬の貸し出しを要請するが、藩からは拒否された。腹の虫がおさまらない松陰は、次に伏見にて、勅使・大原重徳と参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け、京に入る伏見要駕策への参加を計画した。どう考えても計画があまりに壮大すぎて失敗する未来しか見えない伏見要駕策に関しては久坂玄瑞や高杉晋作、桂小五郎が手紙で説得し、思いとどまらせようとしたが、松陰は「今のこの非常事態に、君たちは何もしないというのですね。わかりました。僕は君たちをもう弟子とも友人とも思いません。」と逆ギレをかましている。
徐々に過激化していく松陰の思想に閉口して、長州藩は松陰を再び野山獄に投獄した。安政6年(1859年)、「安政の大獄」の手が松陰にも及んだ。かつて萩を訪れて松陰と語らったことのある梅田雲浜が幕府に捕縛されると、松陰もこれに連座して江戸の伝馬町に贈られることとなった。評定所では松陰に対しては、かつて萩で梅田と松陰が語った内容について問いただされたが、松陰は白熱するあまりかつての老中・間部詮勝の暗殺計画を自白してしまう。これにより、松陰は死罪を宣告された。
安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷で松陰は斬首された。享年30歳。松陰の激烈な遺志は、松下村塾生や明倫館生に引き継がれた。そのうち数名が乱世に斃れ、生き残った者たちにより明治新政府が樹立されるのである。

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*1 のちに松下村塾で松陰が教えを授けることになる山田顕義の叔父にあたる人物

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