坂本権平とは、土佐の商人ならびに藩士の一人である。坂本龍馬の兄である。 [添付] 画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E6%A8%A9%E5%B9%B3 ウィキペディアの「坂本権平」のページから。 【生没年】1814~1871年 【出身地】土佐 豪商・才谷屋当主の坂本八平(直足)の長男として生まれる。弟の龍馬とは約22歳差と、親子ほど年が離れていたという。 安政二(1856年)12月4日に父親が死去すると、坂本家新当主となり、龍馬の保護者となった。龍馬が脱藩を企てた際にはいち早くそれを見抜き、当初は「脱藩すればお前だけにその罪が及ぶんじゃない、お乙女姉さんを含めたこの坂本家の皆に累が及ぶんだ。そうなってもいいのかい」と口頭で説得したが、それでも龍馬の意思が変わらないと見るや、刀を隠して外出できないようにするなどの強硬手段も辞さず、断固として反対の立場をとっていた。それでも龍馬は兄の反対を押し切り、脱藩したのだった。 のちに京都で再会してからは脱藩した龍馬の真意に理解を示した。龍馬から海軍操練所や航海術の話を聞くと「それは面白い。しっかり学んで来いよ!」と励ましたという。それ以降は龍馬に資金や刀を送るなどして国事行為を応援した。 慶応三(1867)年2月、前藩主・山内容堂の判断で龍馬の脱藩が赦免されると、赦免を嘆願してくれた[西郷吉之助に対して「宝刀吉行を龍馬に届けて欲しい」と言付けしたという。 同年11月15日に龍馬が暗殺してからは、未亡人となっていた龍馬の妻・お龍(楢崎龍)を引き取って自邸で生活させた。しかしそれは弟の遺留品と多額な財産が目当ての行動にすぎなかった。 お龍を預かってからしばらくすると、権平夫妻はお龍を邪険に扱うようになった。この生活は精神的支柱を失っていたお龍には耐えがたく、わずか3か月ほどで坂本家を出て、京都に赴き、別の男性と再婚し「西村ツル」と改名して明治を生きた。 元々権平はお龍を引き取るつもりはなかったようで、海援隊隊士・長岡兼吉に「海援隊の方でどうにか預かってほしい」と頼んでいたことが本人の書状で明らかになっている。 明治四(1871)年、死去。享年58歳。