飯沼慾斎 のバックアップ(No.1)

飯沼慾斎(いいぬまよくさい)とは、江戸時代末期の医者・本草学者(植物学者)である。
生没年:天明2年6月10日(1782年7月19日) - 慶応元年閏5月5日(1865年6月27日)
出身地:伊勢国亀山(現:三重県)

生涯 Edit

 1783年、伊勢国亀山の西村家の次男に生まれた。よく知られる名の「慾斎」は晩年に名乗ったもので、平生は「長順」の名を名乗った。以下、この項では晩年の事績までは「長順」で通すものとする。
一家は叔父の「鮫屋」という豪商を手伝っており、幼き日の長順はこの生活の中で興味本位に帳簿に出入りするうちに読み書きを覚えた。12歳の時には学問で身を立てることを志し、親戚のツテをたどって美濃国大垣に赴いた。大垣で町医者を営む母方の叔父・飯沼長顕のもとに弟子入りし、儒学や医学を学んだ後18歳になってからは京都に遊学へ出かけた。京都では朝廷の侍医であった福井榕亭(ようてい)に弟子入りし、漢方医を志す。22歳で大垣に戻り、長顕の娘・志保と結婚し、叔父の跡を継いで飯沼姓を名乗り、大垣の俵町で開業した。
 このころには京都の本草学の大御所ともいうべき学者・小野蘭山に弟子入りする。蘭山には多くの弟子がいたが、蘭山は名誉欲や金銭欲のために本草学を習いに来た人物を嫌っていた。長順はそういった名誉欲や金銭欲にとらわれず、自身の知識を深めるために蘭山に弟子入りしたので、蘭山も純粋な知識欲の塊であった長順をかわいがった。28歳の時には、妻子を親類に預けて江戸に出た。これより少し前に、長順は友人から蘭方医学のすばらしさについて説かれ、当初は地元で蘭方医を学び始めたが、やはりその知識欲からか江戸に出て蘭方医学を極めることを決意し、そのためには家財道具を売り払って学費を捻出することをもいとわなかった。そうして、妻子を親類に預けてから単身江戸に出て、宇田川榛斎(うだがわしんさい)に蘭方医を学んだ。飯沼家と宇田川家の縁はこののちも続き、のちに長順の三男が榛斎の養子・宇田川榕菴(うだがわようあん)*1の養子に入っている。
 そうして、長順は江戸滞在を1年足らずで終了し、大垣に帰った。そうして、江戸での猛勉強で得た知識を生かすために蘭方医として開業した。大垣では長順の名声は高まり、全国各地から長順に教えを乞う者が多く現れた。45歳の時には、藩から御目見えと帯刀が許された。本来、帯刀を許されるのは武士や藩医などごく限られた身分のみ*2で、町医者であった長順が台頭を許されるというのは異例のことで、かつ大きな名誉であった。46歳になった長順は大垣藩の許可を得て、弟子で高須藩(現在の岐阜県海津市のあたり)の藩医であった浅野恒進と共に刑屍体の解剖を行う。時代が下っていくらか蘭方医の知名度が高まったとはいえ、人体解剖は美濃では初めてのこと*3であり、また、人体解剖への抵抗や嫌悪感はまだ根強く残っていたため、長順たちは誹謗中傷を受けた。
 50歳になった長順は家督を義弟に譲り、平林荘という別荘に隠居していた。その頃には加齢による体調の衰えや解剖に対する誹謗中所もあいまって心身ともに疲弊しており、60歳ころには来客を追い返すまでになってしまっていた。ところが、62歳になってから「俺が医学や本草学を学んだのは、一人でも多くの命を救うためではなかったか?このまま荏苒として日々を過ごし、俺のせっかく得た知識を無駄にしてしまってよいものか」と奮起し、慾斎の名を名乗り、植物図鑑「草木図説」の作成に着手した。なお、この名を名乗った理由は、自身がかつて知識を得ることに対して貪欲であったことを思い出したからであるという。
尾張や美濃の野山で植物を観察するサークル「嘗百社」を結成していた伊藤圭介らと知り合い、長順はそのサークルにオブザーバーとして加入させてもらい、伊藤らと親交を持った。伊藤はかつて長崎に赴いた際、シーボルトに学んだという経歴があり、植物を所属する科ごとに分類する、カール・リンネの考案した「分類法」をもとに「泰西本草名疏」を記していた。伊藤はその「分類法」を慾斎に教授し、慾斎はそれを自らの著書に取り入れたのであった。この項の冗漫化の回避のため、「草木図説」の詳細な解説は別項にて述べさせていただく。
 1851年、慾斎は伊藤から高倍率の顕微鏡をプレゼントされた。慾斎はこの顕微鏡を、植物のおしべやめしべなどの細部の研究のために用いた。「老いてますます盛ん」ということわざのように、慾斎は年老いてもなお植物研究へ情熱を注いだ。二人の植木職人をお供に、よく植物採集に出かけた。やはり高齢ということで、足を痛めることはしょっちゅうであったが、それでも山駕篭に乗って山奥まで入って採集を行った。70歳には「草木図説」の「草部」の下書きを完成させたのち、生前に4回にわたって「草部」を出版した。最晩年には西洋文明へ興味を一層深め、藩の命で大砲用の火薬の研究を行い、また写真の研究もおこなった。現在、慾斎の写っている写真のネガと紙焼き版が数枚、早稲田大学図書館に保存されている。ペリー来航の折は、慾斎の評判を聞きつけた幕府が蕃書調所への出仕を要請したが、こちらは71歳と高齢*4のため出仕を断っている。なお、伊藤圭介はまだ50代半ばで体の自由は大いに利く年齢であったため、幕府の求めに応じて江戸に住まいを移し、維新後は東京大学の理学博士に就任した。
 1865年、慾斎は死去した。享年83歳。

著作「草木図説」について Edit

 本書は、リンネの分類法にもとづいてわが国の植物を分類し科学的に観察・図記した、我が国最初の近代的な植物図鑑である。本書は名称の特定には本草学の要素を含むが、本草学的・民俗学的な伝聞や考証は排除し、また標本ではなく自らの観察によって確認できた、舶来種を含めてわが国に産する草本植物およそ1200種や木本植物およそ600種を記載している。「自らの観察による」という姿勢は徹底したもので、掲載されている植物の中には、慾斎が種子や苗を取り寄せ、寓居近くに自作した温室で栽培したものもある。
 花や実は伊藤圭介から貰った顕徽鏡によって観察し、拡大図や解剖図を付し、いずれの植物の図も必ず一部を彩色している(牧野による「増訂」ではすべてモノクロ)。全体図は墨摺りとし、葉の表面を黒くして葉脈を白く浮き出させる表現を採用した。葉の裏面はこの逆で、葉脈を黒くしている。この図法は、師の小野蘭山の執筆した図譜「花譜」を参考にしたと推測される。植物ごとの名称は、和名や漢名、オランダ語での名称を記載している。
 学名は伊藤の著書「泰西本草名疏」を元に書き記している。元々は慾斎はアルファベットで記し、横に片仮名で読みを記す予定であったが、予算の都合上学名も片仮名で記した。明治初期(1873年)に農学者・田中芳男(伊藤圭介の弟子)が一部の内容を改訂したうえで出版された「新訂草木図説」は、学名がアルファベットで書かれており、名称も一部が修正されているのみで、なるべく原本の雰囲気を壊さないような作りとなっている。1907年~1912年に出版・販売された牧野富太郎?の手による復刻版「増訂草木図説」は原著を尊重しつつも、植物名や学名を新しく命名しなおしたもの*5や、誤りを修正したものを記載しており、その際にも修正理由について述べている。また、牧野は一部の図を修正し、慾斎の顕微鏡では観察しきれなかった細かい部分も加筆しており、より近代的要素を強め、「実用的な植物図鑑」に仕上げている。
引用書には伊藤圭介や宇田川榕菴などにより日本で出版された書物のみならず、西洋の本草学者であるホッタイン(1720―1798)、ドドエンス(1517―1585)、オスカンプ、キニホフ(1704―1763)、ウェインマンの植物学書が利用された。
つまり、「東洋の本草学と西洋の植物学のハイブリッド」的な書物なのである。
 なお、飯沼の生前に刊行されたものや、田中により「新訂」、牧野により「増訂」として刊行されたものはすべて「草部」であった。「新訂」や「増訂」の「草部」が世に出された後、「木部」も刊行される予定で、いくつかの図を原著から抜き出して、編纂にあたっての見本が作成されていた。にもかかわらず、どういうわけか「木部」の刊行は沙汰止みとなってしまったのである。「木部」の存在を示唆する資料は、「最後の本草学者」と呼ばれ、明治期から大正期に活躍した植物学者・白井光太郎(しらいみつたろう)による「樹木和名考」があるが、その資料には「木部」からの図が複数記載されている。しかし、日中戦争や太平洋戦争などの複数の要因が絡み合って「木部」の復刊は実行されることなく、「木部」は名のみを知られる幻の図説となりかけたのであった。
 「木部」が正式な形で日の目を見ることになったのは1977年(昭和52年)のことで、植物学者・北村四郎によって解説が付され、10巻もの内容を上下2巻に分けて刊行したのであった。

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*1 最古の近代植物学の図入り教科書「菩多尼訶(ボタニカ)(きょう)」の著者
*2 例えば、前野良沢は医者であったが、中津藩士・奥平家臣でもあったため帯刀や御目見えが許された
*3 江戸では杉田玄白らが「解体新書」執筆のため人体解剖を行う刑場の見学を行っている。それに先駆ける形で京都では山脇東洋が人体解剖を行い、「臓志」を執筆しているが、『解体新書』が出版されるまではこれが最先端の書物であった
*4 現在の感覚で言うと85歳から90歳くらい。当時は二十代後半で「年増」、四十代で「老人」と見なされていた
*5 原著でオランダ名しか記載されておらず、明治期になって再び日本に渡来し栽培が広まった植物は牧野が新名称を付している

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