中岡慎太郎とは、土佐藩士の一人である。 中岡慎太郎の肖像写真。画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B2%A1%E6%85%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E ウィキペディア「中岡慎太郎」のページより引用。 生没年:1838(天保九)年~1867(慶応三)年 出身地:土佐国
土佐国安芸郡北川郷の大庄屋の家に生まれた。幼名は福太郎、名は為鎮といったが、本稿では一貫して「慎太郎」で解説するものとする。安政初年に高知城下に留学し、儒学を真崎鉄馬に、剣を武市瑞山に学んだ。1857年(安政四年)には北川豪大庄屋の見習いに就任し、父をよく助けた。 1861年(文久元年)に武市瑞山が土佐勤皇党を結成するとこれに参加(坂本龍馬とはこの時期に知り合っている)。前藩主・山内容堂の身辺警護のため郷士や庄屋、足軽など同志50人を集めて「五十人組」を結成し、彼らとともに上京する。この五十人組の中の有名人には、のちに明治政府において司法卿として活躍した河野敏鎌?がいる。 その後、前土佐藩主・山内容堂の命を受けて江戸に下り、1862(文久二)年12月には水戸に赴き長州藩士・久坂玄瑞と知り合い、さらに信州松代に赴き学者・佐久間象山に出会い学んだ。 しかし、翌年の1863年(文久三年)に京都で八月十八日の政変が発生し、尊王攘夷派が勢いを失ったことで事態が急変する。八月十八日の政変を境に各地で尊王攘夷派の弾圧が始まったのである。九月には勤皇党党首の武市をはじめ多くの勤皇党員が逮捕・投獄されることなり、慎太郎にも逮捕状が出た。これにより、身の危険を感じた慎太郎は脱藩する。脱藩してからは周防・三田尻にのがれ、そこで久留米藩士・真木和泉とともに尊王攘夷派の主導者となった。翌年の1864年(元治元年)には「石川誠之助」という変名を用いて上洛。高杉晋作や久坂玄瑞とともに薩摩藩国父・島津久光の暗殺をもくろむが果たせず、一方で尊攘派の薩摩藩士・中村半次郎(桐野利秋?)等とも親交を持つ。同年に蛤御門の変が発生した折には忠勇隊に従軍し、敗走するさなか負傷している。 この蛤御門の変を境に、長州藩への「朝敵」という沙汰・雄藩同士の有害無益な対立・志士たちへの弾圧などの現実を目の当たりにした中岡は、活動方針を尊王攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させる。 のちに七卿落ちで京から逃れた公卿・三条実美と連絡を取り合い、そのさなかにかねてより構想していた雄藩連合の実現策として薩長連合を計画した。そうして、1866(慶応二)年には勤皇党以来の同志・坂本龍馬の協力を得て、薩長連合を成功させた。その途中に薩摩藩代表・西郷吉之助が長州藩代表・桂小五郎との面会の約束をすっぽかして交渉が決裂しかけるなどのすったもんだがありつつも、雄藩連合という構想を画餅のまま終わらせなかった中岡と龍馬の功績は大きい。 1867年(慶応三年)には土佐藩の許しを得て小笠原只八・乾退助とともに脱藩し、雄藩連合の構想の一環として西郷吉之助・小松帯刀・吉井友実ら薩摩藩の代表とともにとともに薩土盟約を締結した。それからほどなくして七卿落ちにより九州太宰府に配流されていた三条実美と、朝廷により京都岩倉村に隠棲すべしとの命が下されていた岩倉具視との和解工作に成功する。両者は和宮降嫁の一件で水と油の関係性であったが、中岡の説得で和解したのであった。さらに、龍馬とともに藩の支援を受け、龍馬は海援隊を、中岡は陸援隊を結成し、武力による倒幕を目指した。 しかし、大政奉還後の同年11月15日、京都川原町蛸薬師の宿・近江屋で龍馬と会談中、誰とも知れぬ者三人(現在は京都見廻組の今井信郎、渡辺篤、佐々木只三郎という説が根強い)の襲撃を受ける。龍馬は額を割られて即死し、中岡も重傷を負った。一度は軽食を摂れるまでに回復したが、襲撃から二日後の夕方に容体が悪化し、吐血。後事を陸援隊の同志・田中光顕に託して事切れた。享年30歳。京都霊山護国神社に坂本龍馬とともに墓が建てられ、祭られている。