増田甲斎 のバックアップ(No.2)

増田甲斎とは、幕末に活躍した日本人である。ロシア名の「ウラジーミル・ヨーシフォビッチ・ヤマトフ」の名称でも知られ、日本名も「橘耕斎(たちばなこうさい)」「立花粂蔵(たちばなくめぞう)」など複数の名称がある。
【生没年】1828年~1885年
【出身地】掛川藩(静岡県)


 掛川藩(静岡県)の武士の家に生まれた。当初は「橘耕斎」と名乗った。甲斎の前半生は諸説あり、今もなおはっきりしていない。
 まず一説。甲斎は尊大な性格で、しかも大変な暴れ者で、同僚とのつまらぬいさかいがもとで殺人を犯してしまい、捕吏の手を逃れるため出家して僧侶となった。あくまでも一時潜伏のために池上本門寺に逃げ込んだので、甲斎は「このオレ様にケンカを売ってきたバカをぶっ殺して何が悪い」とばかりに反省の色もなく、僧侶としてのの務めを果たさず、仏教では禁忌とされる酒や博打に溺れる堕落した日々を送っていた。そうして、ある日寺から逃げ出したところ、戸田(へだ)に逗留していたロシア人のヨシフ・ゴシケーヴィチに出会い、親友となる。日本語の辞書をゴシケーヴィチに貸したところ、これが露見して「国家の機密情報を漏洩した」というかどで逮捕された。そして、牢の番人が油断したところを見計らって逃亡し、ロシア人宿舎に到着し、着のみ着のまま停泊していたプロイセンの商船グレタ号に乗船し、ゴシケーヴィチらとともにロシアに渡った。
 次にもう一説。甲斎は人格者でまじめに城勤めも行っていたが、藩主からその働きぶりを認められ「ロシアと日本の国交の懸け橋となってほしい」との命を受けた。そうして、そのためには脱藩しなければならなかったが、これは「出家して録を返上した」という名目での藩主公認の脱藩であった。その工作のため、わざわざ剃髪までしている。そうして、ゴシケーヴィチらとともにロシアに渡った。
 このほかにも、博打で破産したとも、当時交際していた女性との関係が悪くなり、喧嘩の果てに女性を殺してしまったことによるとも、自身の働きぶりが賞賛されていることを妬んだ同僚に命を狙われて返り討ちにしたためとも、また単に自由を好む性格だったため脱藩したともいわれ、いずれにせよなかなか異色の経歴を持つ人物であることは否めない。
 甲斎らはロシアへ向かう途中、太平洋にてイギリス船に捕縛された。これは、クリミア戦争によりロシアとイギリスが対立していたためである。幽囚の身となった甲斎は、「橘耕斎」名義で『和魯通言比考』という、日本語の標準語とそれに対応するロシア語を収録した史上初の日露辞書*1を執筆した。その後、正教の洗礼を受け、ロシア外務省の役人に就任した。1862年の幕府による文久遣欧使節の派遣の際、ロシアに到着した正使・竹内保徳や副使・松平康直らは、ロシアからの接待が日本風で、しかも正式に日本のしきたりをなぞっていることに驚かされたが、それは甲斎改めヤマトフが接待の舞台裏で活躍していたためである。しかし、ヤマトフは幕府使節団の前には一切姿を現さなかったという。今でもその理由はよくわかっていない。1866年に幕府の使節が派遣された際にも、ヤマトフは接待を行っているが、やはり使節団の前に姿を現したという記録はない。
 1870年にはサンクトペテルブルク大学で日本語の教鞭をとった。1873年には岩倉使節団の接待を行うが、岩倉具視により日本に帰国するよう説得された。そうして、帰国する際には、これまでの功績をたたえられ、ロシア皇帝よりスタニスラフ三等勲章と年金1000ルーブルを賜った。帰国してからは東京・芝にある増上寺の近くに住み、生計はロシア政府からの年金で賄っていた。晩年は「増田甲斎」と名乗り、仏僧として余生を送った。最晩年には自らの寺に突然現れたロシア人の浮浪者に金品を恵んでやったこともあったという。

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*1 18世紀にも日露辞書が作成されているが、それは薩摩出身の漂流民の手によるもので、薩摩弁とロシア語の辞書であるから「日露辞書」とはみなされない向きもある

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