橋本左内 のバックアップ(No.2)
橋本左内とは、福井藩士の一人である。 【生没年】天保5年3月11日(1834年4月19日)~安政6年10月7日(1859年11月1日) 生涯
福井藩奥外科医・橋本長綱の長男として生まれる。左内は幼少期から学問が大好きで、いわゆる「神童」と呼べるほどの天才であった。7歳で漢籍・詩文と書道を、8歳で漢学を学び、生涯を通じて学問武道に励んだのである。 安政元年(1854年)、父親の死から2年が経過して喪も既に明けたので江戸に留学し、蘭学者坪井信良のもとでオランダ語などの「蘭学」を教えられた。教えの呑み込みが早く、なおかつ自身が天才であることを鼻にかけない左内の姿勢を気に入り、蘭方医・杉田成卿を紹介され、杉田のもとで蘭方医学を学んだ。 彼らと語り合ううちに、左内は自身がただ荏苒として藩医として口に糊し、列強の進出が迫る中、自国の情勢をただ指を咥えて見ているに忍びなかったため、側用人の中根雪江に藩政への関与を願い出た。雪江は藩主・松平春嶽に左内の藩政への関与を提言し、春嶽はこれを許可した。左内は春嶽により藩医職を解任され、御書院番に任ぜられた。その後ほどなくして、春嶽の側近に任ぜられた。 13代将軍・徳川家定亡き後の将軍継嗣問題が持ち上がると、左内は主君の春嶽の「英明な水戸の斉昭殿の子・一橋慶喜様こそ時期将軍にふさわしい」という意見に同調し、「慶喜様を擁立し幕政の改革を図るべし」と強く主張した。幕政の改革の内容とは、薩摩などの雄藩の連合を図った幕藩体制を取り、そのうえで積極的に西欧の先進技術の導入・対外貿易を行うことであった。その一環として、ロシアとの国交樹立が挙げられた、このロシアとの国交樹立案は、日本の安全保障を見据えたものであった。 しかし、ここから左内の人生に暗雲が立ち込めてくる。 安政6年10月7日(1859年11月1日)、左内は伝馬町牢屋敷で斬首された。斬首された当日、左内は立会人から「死ぬ前に何か言い残すことはないか?」と問われ、「何もありません。しかし、心を落ち着かせたいので少し待ってください」と呟いたのち、目から大粒の涙を流し、細く肩を震わせて一切の声も出さず泣いた。 コメント
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