田中河内介 のバックアップ(No.2)

田中河内介は、江戸時代末期の尊皇攘夷派の志士である。

Tanaka_Kawachinosuke.jpg
画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tanaka_Kawachinosuke.jpg 明治時代に刊行された維新期前後の人物の伝記『高名像伝 : 近世遺勲. 天』より。
【生没年】1815~1862年
【出身地】但馬

生涯 Edit

但馬国出石郡神美村香住(現兵庫県豊岡市)の医者・小森信古と、母・三谷氏の間の次男として生まれ、名を「小森賢二郎」と名乗った。
幼いころから神童として名高く、出石藩侍講の儒学者・山本亡羊に師事し、武術も得意で、特に弓術も嗜んだという。
1843年には、師である亡羊の推挙で、藤原北家系統の公卿・中山忠能(ただやす)(明治天皇の外祖父)に仕えることとなる。
賢二郎は文武両道に優れ、人格者でもあったため、中山忠光・慶子(よしこ)らの侍候(家庭教師)にも任命された。
後に中山家重臣の田中氏に婿入して田中の名字を受け継ぎ、従六位河内介に叙され、後年知られる「田中河内介」を名乗る。
1852年、慶子が実家の中山邸において、皇子・祐宮(のちの明治天皇?)を出産した。藤原北家系とはいえ、中山家は家禄僅か200石に過ぎなかったが、とにかく何としても出産や出産祝いの儀式などは公家の面目を保つため、しきたりとして行わねばならず、しかもそれには莫大な金額のお金が必要であった。そこで、田中は但馬の実家から金を借りてまで、そうした費用を捻出した。
そうして、田中は祐宮が1856年に宮中に移されるまで、我が子のように熱心に教育した。
 京都では尊王攘夷派の志士が多数活動し、過激派の一部が公卿に強迫行為を行う中、田中は中山忠能に様々な献策を行うが、段々と二人の主従関係に亀裂が生じてきた。
忠能は和宮?の将軍家降嫁による公武合体策を支持したが、田中がこれに反発。これにより、両者の主従関係はほぼ決裂状態となった。
1861年、田中は西日本を遊説し、久坂玄瑞?(長州)、真木和泉?(久留米)らと交流を深める。京に戻って『安国論』を執筆するが、この書物の内容が危険視され、幕府からの監視を受けることを余儀なくされた。
この翌年、田中は中山家に暇乞いをし、本格的に尊王攘夷運動へと身を投じる。国学者の矢野玄道、副島種臣(佐賀藩士)、西郷吉之助平野国臣?(福岡藩士)、小河一敏?(岡藩士)、清河八郎?(庄内藩士)、宮部鼎蔵?(熊本藩士)と交流を深めた。
幕府の監視が強まり、京都が騒然とする中、田中は長子・瑳磨介とともに薩摩藩邸に身を寄せる。このころ、薩摩藩士の柴山愛次郎、橋口壮介らとも交流を結び、柴山は田中を己の師と仰いだ。
1862年、薩摩藩国父・島津久光?が上洛すると、薩摩の尊皇攘夷派の志士の過激派グループは「今こそ討幕のとき!」と色めき立つが、久光の上洛の目的はあくまでも公武合体にあった。久光はいかなる手を使ってでも公武合体の障害物となりうる藩内の過激派グループを粛清することを決定した。


 1862年4月23日、久光の命を受けた大山格之助ら鎮撫隊が田中父子を含めた過激派を捕縛した。世にいう「寺田屋事件」である。この政変で、有馬新七らが命を落とした。過激派を扇動したという罪状で、田中一派と、帰国を拒んだ者の合計6名は『日向送り』という処分が下った。これは名目上は「幕府の操作が及びにくい日向に一時的に身柄を預ける」というものであったが、実際は死刑宣告であった。安政の大獄の頃、西郷隆盛が月照の身柄を隠すために奔走する最中、薩摩藩からは月照に対して日向送りの措置が下しおかれた。


 田中父子ら6名が分乗した2艘の舟は大坂から出港し、まず船上で瑳磨介が橋口吉之丞*1に腹部を刺されて死亡した。わずか17歳であった。
吉之丞の兄の壮介は寺田屋事件で死亡しているが、壮介は瑳磨介に誘われて過激派グループに加わっているから、弟からすれば「お前のせいで、俺の兄は尊皇攘夷運動に身を投じて死んだのだ」と激しく恨む対象であった。
我が子が惨殺される様子を見て、河内介は己の死を悟り、「もうよい。小生を殺すなら早く殺せ」と胸をはだけて言った。
まず、柴山景綱が河内介を斬ろうとした。柴山は河内介と親しく、寺田屋騒動にも居合わせていた。
柴山が主君からの命と河内介との師弟関係の板挟みで刀を抜けず苦悩し、「ひどく船酔いした」と嘘をついて船の医務室に入った後、弟の是枝万助が手を下し、田中はずたずたに斬殺された。享年48歳。是枝万助は以前、仲間たちの目の前で河内介に「小生はこういう連中とは席を同じくすることはできない」と面罵されたことで河内介を恨んでいた。兄が手を下せずに苦悩している様子を目にし、「兄者がこのお方に世話になったんはよく知っちょっ。どうしても無理なら(オイ)が代わりに手を下すで、兄者は『気分が悪くなった』とでも言って医務室に入っちょればよか」と促したのも万助であった。


ながらへてかわらぬ月を見るよりも  死してはらわん世々のうき雲(河内介辞世の句)


田中父子の遺体は海に投げ捨てられ、小豆島で発見された。
河内介は覚悟を決めた表情で、瑳磨介は悔しさをにじませた凄惨な表情であったという。
瑳磨介を刺殺した吉之丞は、1868年、戊辰戦争のさなかのどさくさ紛れで突然切腹させられた。理由は今も明らかになっていない。享年25歳であった。河内介にとどめをさした是枝万助は、突然精神に異常をきたし発狂した。1868年には、激しく自分の体を切りつけるという自傷行為を繰り返し、いわゆる「廃人」になってしまった。柴山が弟を自宅に引き取って面倒を見続け、是枝は廃人状態のまま69歳まで生きたという。
寺田屋事件から田中父子の殺害までの一連の知らせを聞いた西郷は、「何チこつバしてくいやったか。これで我が藩は勤王の二文字を名乗っことができなくないもした」と嘆いたという。

やがて、明治初期になり明治天皇?が酒の席で「朕が幼い頃、朕を育ててくれた田中河内介のことを時々思い出す。殺されたと聞きおよんでいるが、一体誰がそのようなことをしたのであろうか」と発言した。すると、同席した小河一敏が「田中河内介を殺したのは、この者でございます」と同じく酒席にいた大久保利通を指差して発言し、その場を凍りつかせた。確かに、久光の命を受けて河内介らを日向送りにするために動いていたのは、大久保や同じく久光に使えていた堀忠左衛門(伊地知貞香)であった。
明治天皇はその場の張りつめた空気で何かを悟ったのか、これ以来、人前で田中河内介の名前を出すことはなかったという。
1871年に参議・広沢真臣が暗殺されたとき、小河は容疑者の1人として捕縛されて鳥取藩にて幽閉されたが、この措置は大久保による私怨ではないかとされる。

明治から大正にかけて、「百物語の会で田中河内介の死の真相を語ろうとした者が、その核心を語ろうとした途端、話があちこちに逸れて要領を得なくなり、やがて呼吸が止まり、そのまま死んでしまった」という都市伝説が広まった。人々はこれを「田中河内介の祟りだ」と噂したという。前述の是枝万助の発狂もまた、田中河内介の祟りであるという噂が立ったが、現在は一種のストレス的作用によるものではないかとされる。

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*1 寺田屋事件で軽傷を負いながらも鎮撫使を殺害したが、事件後は無罪放免となっていた。この理由は今も明らかになっていない

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