高杉晋作とは、長州藩士の一人である。
画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%89%E6%99%8B%E4%BD%9C いずれもウィキペディアの「高杉晋作」のページから引用。 (左)伊藤俊輔(右)や従者の三谷国松(左)と写った写真。(右)上野彦馬撮影の肖像写真。頬がかなりこけており、肺結核の症状がかなり落ち着きはじめたころに撮影されたものであろうと思われる。 【生没年】1839年~1867年 【出身地】周防国 長州藩上士・高杉小忠太の長男。数え年10歳の頃に疱瘡(天然痘)に罹患し、家族の献身的な看病で一命はとりとめたが、顔面のあばたは死ぬまで消えなかったという。この顔面のあばたがもとで、近所の子供たちからは「小豆餅」とからかわれたという。 嘉永五(1852)年、藩校明倫館に学び、もっぱら剣術に力を入れ、のちに柳生新陰流免許皆伝を授かるに至る。 安政四(1857)年、久坂玄瑞の誘いで松下村塾に入門。翌年には江戸に留学し、大橋訥庵の私塾や昌平坂学問所で学ぶ。塾長・吉田松蔭?から多大な影響をうけ久坂とならび「松門の双璧」と称えられた。また、久坂・吉田稔麿・入江九一とともに「松下村塾四天王」とも呼ばれた。安政六(1859)年には師の松陰が安政の大獄で捕らえられると家族からの反対を押し切って江戸・伝馬町獄を見舞って、獄中の師を世話する。このとき何度か松陰の激烈な行動を弟子としていさめたが、松陰から破門を言い渡されている。とはいえ、松陰も翌日には晋作への破門宣言をすっかり忘れていたらしく、翌日には再び面会にやってきた晋作を笑顔で出迎えていた。晋作は藩より命じられて萩に帰らざるを得なくなり、再び江戸に向かおうとするが家族に露見し、思いとどまるよう説得される。 このさなかに師・松陰は斬首刑の宣告が下され、実行された。やがて実家に帰り、松陰の死が知らされると、晋作は自身を何度か師のもとに行かせまいとした家族に八つ当たりすらしながら三日三晩泣き暮らしたという。 文久元(1862)年、上海に渡航し、中国人がイギリス人から非人道的な扱いを受けている現実を目の当たりにし、一層強烈な攘夷思想を持つに至る。帰国後は独断でオランダ船を購入し、久坂や伊藤俊輔(博文)、志道聞多(井上馨)や赤根武人ら同志達と英国公使館の焼き討ちを計画している。一度はこれが藩の上層部に露見して計画者全員に謹慎が命ぜられたが、高杉らはこれを無視して実行している。 その後、伊藤俊輔の協力を得て志願者を募り、私兵集団『奇兵隊』を結成した。 しかし、文久三(1864)年に京都で尊皇派の公卿が追放されるクーデター「八月十八日の政変」が発生すると長州の尊攘派は勢いを次第に失い、翌年の文久四(1864)年の禁門の変で長州軍は幕府側の薩摩軍に敗北。その後は英仏米蘭の四ヶ国艦隊が関門海峡で下関を砲撃。さらに悪いことに幕府軍により長州征伐が計画され、長州藩はいよいよ窮地に立たされた。 元治元(1865)年、奇兵隊の起こした暴動事件の責任をとって謹慎中だった高杉は罪を許されて出獄し、四カ国連合艦隊との講和の際には「家老の養子・宍戸刑馬」と名乗って交渉にあたった。直垂に大鎧とさながら古い時代の武者の姿で登場し、四カ国首脳が賠償金の支払いや彦島の租借を要求する中、これらの要求には一切応じない構えを見せ、四カ国首脳を論破・恫喝し、交渉を成功させる。 同年一二月のクーデターでは幕府への恭順を誓う「俗論党」の打壊を成功させている。長州藩内は菌門の変以来、幕府への恭順派の「俗論党」と幕府との徹底抗戦を主張する派閥「正義派」に分裂し、高杉晋作は「正義派」の中心人物となっていた。「正義派」が藩首脳部の「俗論派」により冷や飯食いの立場に追いやられるが、このクーデターで一気に巻き返し、倒幕への主舵を切ったといえよう。 慶応二(1866)年の四境戦争で晋作は大村益次郎と共に類い稀なる軍略の才を用いて長州を勝利に導いた。しかしこの戦争の翌年の上旬、長く患っていた肺結核が悪化し、床から出ることができなくなった。そうして大政奉還すら見届けることなくその生涯を閉じた。享年二十九歳と、早すぎる死であった。死後、贈正四位が送られた。