坂本龍馬(坂本竜馬)は、江戸末期の武士並びに商人。薩長連合などを成し遂げ、明治新政府の足掛かりを作ったとされる。 画像出典:(上)と(下)はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC (中)はhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kaientai.jpg (上)よく知られた龍馬の立像写真。撮影者は上野彦馬とされてきたが、近年の研究により、彦馬の弟子で龍馬の親戚である井上俊三の撮影であることが判明している。 (中)海援隊集合写真。左から長岡謙吉、溝渕広之丞、龍馬、山本洪堂(復輔)*1、千屋寅之助、白峰駿馬。 (下)龍馬と菊の鉢の写真。慶応三年(1867年)の晩秋、暗殺の数か月前に上野彦馬により撮影。この写真を根拠として、「龍馬は梅毒患者であった」といわれるが、龍馬はいわゆる「若ハゲ」の体質で、兄の権平の写真にも「若ハゲ」がみられる。
天保6年11月、土佐の郷士・坂本八平の次男として生まれる。 実家は商家であったが、曽祖父の代で武士身分を買ったという。 幼少期は泣き虫で夜尿症が酷く、おまけに剣術も勉学もからきし上達しないため父親には将来を悲観されていたが、姉の乙女のスパルタ教育や道場主の日根野弁治によって文武両道に優れる少年に成長した。龍馬にとって乙女は亡き母の代わりの存在であり、龍馬は後に脱藩しても乙女に手紙を送り続けたといい、その手紙は現存している。 嘉永6(1853)年には父の許しを得て江戸の北辰一刀流の千葉定吉に師事し、北辰一刀流の免許皆伝を得る。 文久元(1861)年、同土佐藩士で遠い親戚にあたる武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加するも、政治方針の不一致からこれを脱退した。龍馬脱藩の報を聞くや武市は「あやつは土佐にはあだたぬ(おさまりきらぬ)男よ」と微笑したという。翌年には脱藩して各地を転々としていたが、脱藩の最中に自らに藩政・吉田東洋暗殺の嫌疑がかかっていたため薩摩藩士・才谷梅太郎と身分を偽って主人のお登勢に快く迎えられて寺田屋に潜伏し、やがて江戸に行った。 このころ、龍馬は勝海舟に出会った。当初は「勝が日本を外国に売り飛ばそうとしている」という噂が流れており、その情報を千葉道場の息子・千葉重太郎に聞かされた龍馬は、ことと次第によっては勝を斬るつもりで重太郎に同行を頼んで勝の邸宅に向かった。そして、ここで勝から「おれを斬るなら、おれの話を聞いてからでも遅くはないよ」と説得され、勝の世界情勢を見据えた弁論に引き込まれ、勝の門下生となった。このことがよほど嬉しかったのか、龍馬は乙女宛の手紙に「日本一の大人物の弟子になり候、エヘン/\」というユーモラスな手紙を送っている。 この後には土佐藩から知人の菅野覚兵衛(千屋寅之助)や北添佶摩、望月亀弥太などを呼び寄せて神戸海軍操練所建設に尽力する。また、勤王党員の岡田以蔵を呼び寄せ、勝の護衛を頼んでもいる。しかし、幕府の保守派に目をつけられていた勝が操練所の教員の役職を解雇され、失敗に終わった。これより少し前には北添や望月が池田屋事件で新選組の襲撃を受けて落命している。 慶応元(1865)年、菅野覚兵衛や長岡謙吉、陸奥陽之助(後の陸奥宗光)や饅頭屋の倅の近藤長次郎などとともに長崎の亀山に社中を開く。この社中は後に海援隊と名を改め、海外との貿易を見据えた日本初の商社と言われる。この設立にはイギリス商人のトーマス・グラバーも協力した。特に陸奥は龍馬からの信頼が高く、龍馬をして「刀なしで生きていけるのは、おれと陸奥だけだ」と言わしめたという。いわゆる秀才肌の近藤長次郎もまた龍馬から強い信任をおかれていたが、のちにイギリスへ留学したいがために隊の金を横領したかどで、隊規違反として切腹させられた。龍馬は近藤の死を「術数有り余って至誠足らず。上杉氏身を亡ぼす所以なり」*2とやや非難めいた口調で己の手帳に記しつつ、妻のお龍には「おれがいたならあいつを死なせはしなかった」と嘆いたという。 これと時期を同じくして、武市ら土佐勤王党の党員が全員捕縛され、死罪ならびに斬首となった。 倒幕のための作戦として、同土佐藩士の中岡慎太郎とともに薩長連合締結に努力した。薩摩藩(現在の鹿児島県)と長州藩(現在の山口県)に手を結ばせることで、長州は薩摩に米を提供でき、薩摩は長州に武器を提供できるという寸法である。慶應2(1866)年には西郷吉之助(隆盛)と桂小五郎(木戸孝允)の盟約に立ち会い、薩長連合を成功させた。 薩長連合の後、龍馬は寺田屋にて長府藩士・三吉慎蔵と酒を飲んでいたがそこを幕府の捕吏に押し入られる。このときたまたま入浴していたお龍が龍馬に命の危険を知らせた。 龍馬はピストルで応戦するも右手に重症を負った。しかし、三吉の奮戦のお陰で命からがら逃げ延びている。西郷吉之助は薩長同盟の恩義もあって龍馬を匿い、この寺田屋事件を境に龍馬とお龍は結婚する。これがわが国最初のハネムーンであるといわれる。 慶應3年5月、海援隊のいろは丸が紀州藩の蒸気船・明光丸と衝突する事故が発生した。いろは丸事件である。 龍馬はじめ海援隊士などいろは丸乗組員は全員明光丸に乗り移っており、死者は発生しなかったものの、いろは丸は大破した。 龍馬と明光丸の管理元である紀州藩は賠償金を巡って争い、紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたが、龍馬は当時日本に持ち込まれたばかりで自身が精通している万国公法を持ち出し、紀州藩側の過失を追及し、賠償金8万3526両198文(現在の金額に換算して164億円)を得た。 慶應3(1867)年6月、土佐藩上士の後藤象二郎と長崎から海路上京する船中で、独自の国家構想である「船中八策」を考案し、海援隊士の長岡謙吉がこれを書きとめ成文化した。元々後藤は龍馬から見れば、武市瑞山などのかつての同志を死に追いやった不倶戴天の敵であり、後藤からすれば龍馬は自らの叔父・吉田東洋を暗殺した勤王党の手先ということもあり、なかなか手を取り合うことは難しいものであったが、二人は手を組んで倒幕への面舵をとり、龍馬と後藤はこの案を前藩主・山内容堂に進言し、容堂もこれを快諾した。こうして、大政奉還がなされた。 以下はその船中八策の全文である。 一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事 一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事 一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事 一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事 一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事 一、海軍宜ク拡張スベキ事 一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事 一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事 以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ。苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並行スルモ、亦敢テ難シトセズ。伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。(Wikipediaより引用) 一説にはこれが五箇条の誓文の原案であるとされていたが、2010年代以降から、『明治以降になってそれまで政府の高官にしかその名を知られていなかった龍馬が多くの民衆に注目されるようになり作られた、いわゆる偽書のたぐいである』という見解が強まっている。
同年11月15日、龍馬は中岡慎太郎と京都近江屋に泊まっていた。このとき龍馬は使いの少年・菊屋峯吉に軍鶏鍋を買いに行かせ、中岡と新政府の構想について語っていたという。 やがて、3人の十津川郷士(十津川郷士や龍馬は親交があった)を名乗る侍が「坂本先生にお目にかかりたい」と従僕の藤吉に取り次ぐよう頼むと見せかけ、後ろから斬り伏せた。斬り伏せられた藤吉のどよめきとその倒れ込む音から、龍馬は大柄な体格の藤吉が相撲の真似事をしていると勘違いし、「ほたえな!」(土佐弁で「騒ぐな」)と叫んだが、これが元で刺客に龍馬の場所が知られてしまった。 龍馬は応戦虚しく額を切られ、脳漿が噴出してのち、昏倒した。刺客が去ってから、 「石川(石川誠之助。中岡慎太郎の変名)、刀はないか。おれは脳をやられた。もうだめだ」とつぶやいた。これが最期の言葉であった。坂本龍馬、享年三十三歳。 中岡は重症であったがまだ息があり、一時は軽食が取れるまでに回復した。しかし襲撃から二日後に突然容態が悪化し、この世を去った。中岡慎太郎、享年三十歳。 龍馬を暗殺した犯人は、現在に至るまで不明ながらも、京都守護職・松平容保の命を受けた京都見廻組の隊員・佐々木只三郎、今井信郎、渡辺篤の可能性が高いとされている。今井は維新後*3に「私が龍馬を斬った」と証言しており、龍馬を己が師匠と仰いでいた旧土佐藩士・谷干城に「それは今井の売名行為にすぎない」と一蹴されたという。谷は政務にあたるかたわら、しぬまで龍馬暗殺の犯人を模索していた。 これ以外にも、新選組が実行犯であるとする説*4や大政奉還により討幕の大義名分が消滅したことに怒った薩摩藩の代表である西郷隆盛と大久保利通が黒幕であるとする説や後藤象二郎による大政奉還の手柄の独り占め説などがある。 なお、龍馬の暗殺にフリーメイソンが関連しているとされるが、これは龍馬のスポンサーであったトーマス・グラバーがフリーメイソンに所属していて、海援隊を設立したことで商売敵となった龍馬が邪魔になったという理由が挙げられるが、そもそもグラバーがフリーメイソンに所属していたという証拠が存在しないため、陰謀論とか奇説の類として歴史学界では相手にされていない。 龍馬の死から数日後、中岡の「襲撃犯が伊予弁で『こなくそ!』と叫んだ」という証言や、現場に原田のものとされる蝋色の鞘や瓢亭の下駄などが落ちていたことから、襲撃犯の一人が伊予藩出身の新選組隊士・原田左之助であるといううわさが流れており、さらに、紀州藩士・三浦休太郎がいろは丸事件の報復として龍馬を暗殺したと決めつけた陸奥陽之助ら海援隊隊士が京都油小路の旅籠・天満屋に逗留していた三浦やその警護に当たっていた新選組を襲撃した。これが天満屋事件である。陸奥らは逃亡したが、同じく襲撃に加担した十津川郷士・中井庄五郎が討ち死にした。 龍馬にはお龍とのあいだに子供がなかったため、海援隊士で龍馬の甥にあたる高松太郎が坂本直と名を改めて家督を継いだ。現在は子孫が北海道に居住しているが、ご当主は東京に在住されている。