西郷隆盛 のバックアップ(No.4)

西郷隆盛とは、薩摩藩士の一人である。
Saigo_Takamori_Portrait_by_Ishikawa_Shizumasa.jpg
Saigo_Takamori_Portrait_by_Tokonami_Masayoshi_1887.png
画像出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Saig%C5%8D_Takamori (上)日本画家・石川静正が西郷に直接面会して描いた肖像画。西郷は写真が嫌いで、生涯撮影しなかったと伝わる。/(下)1887年に描かれた、床次正精による西郷の肖像画。床次もまた、西郷と面識があったという。床次による西郷の肖像画には、洋装に蝶ネクタイ姿の物もある


【生没年】1827~77
【出身地】薩摩藩


鹿児島城下において、下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男として誕生。
天保12年(西暦1841年)に元服した「西郷吉之介」と名乗る。
幼少より読書を好み、とくに陽明学を修めた。剣術はそれほど不得手ではなかったが、幼少期に上級武士の子息とのけんかがもとで、右手に障害が残ってしまったため、剣術を磨くことは断念していた。
弘化元年(1844年)に郡方書役を勤め、薩摩藩主島津斉彬の庭方役として重用されて藩政に関わったが、斉彬死後の時勢に落胆して殉死しようとするも、友誼を結んだ京の勤皇僧・月照の説得で一時は断念する。しかし、安政の大獄の手が西郷にも迫ってくると、西郷は月照とともに日向の錦江湾にて入水する。
安政6年(1859年)、大獄の手が藩に及ぶことを危惧した藩庁により、奄美大島に配流されることが決定した。そこで現地の酋長の姪・愛加那と結婚し、菊次郎と菊草の二子を設けている。
文久元年(1861年)、帰還が許されたが、久光と西郷はそりが合わず、上洛の一件で西郷が久光を「地ごろ」呼ばわりしたことをきっかけに対立が生じ、島津久光は京都での寺田屋事件に関して、西郷が有馬新七ら過激派の勤皇志士と接触し、決起をアジったのではないかという嫌疑をかけて西郷を徳之島へ流罪にし、ほどなくして沖永良部島に配流した。沖永良部島では劣悪な環境により象皮病にり患し、一時は生死の境をさまようが、島代官の土持正照とその母親の助けを受け、一命をとりとめた。。
しかし、文久3年(1863年)の生麦事件による薩英戦争勃発を知って密かに帰還し、大久保利通や小松帯刀の勧めで久光は元治元年(1864年)2月に西郷を放免召還にした。
7月、長州勢による禁門の変が発生し、佐幕派として西郷は薩摩勢を率いて長州勢を撃退。
慶応元年(1865年)の長州征伐で戦後処理に当たったが、薩摩藩が長州藩の撃退に一役買っていたにもかかわらず、幕府が薩摩藩などの外様の「雄藩」を政治に参加させないままである事に失望し、この頃から討幕派に転じる。翌年には坂本龍馬の仲介を経て、小松帯刀に付き添いを頼んで長州の桂小五郎と会談し、薩長同盟を締結。
西郷達薩摩と桂ら長州は江戸幕府を武力で潰そうと考え、慶応3年(1867年)に討幕派公卿・岩倉具視の協力を得て倒幕の密勅を降下するも、その前後に徳川慶喜による大政奉還がなされてしまった。
そこで西郷達は慶応4年(1868年)に御所を藩兵で取り囲んで王政復古の大号令を発布。さらに西郷達は浪人たちを使って江戸市中で騒擾活動をさせ幕府を挑発し、市中取り締まりを担っていた庄内藩が江戸薩摩藩邸を襲撃。これを機に戊辰戦争が勃発。
新政府軍の司令官となった西郷は旧幕府軍を撃退し、江戸へ向けて進軍した。そこへ、慶喜の特使として山岡鐵太郎(鉄舟)が慶喜の意向を伝えに接触し、勝海舟との会談を実現。会談によって江戸城無血開城を果たした。その後も北陸方面で転戦するが、函館戦争には西郷が赴く前に戦闘が終結している。戊辰戦争後は、次弟の吉二郎を戦場で亡くしていることもあって、隠居生活を送っていた。
明治4年(1871年)、大久保利通の要請により政府に復帰し、参議に就任。親兵を率いて廃藩置県に携わった。ほとんどの藩主は江戸生まれであったことと、戊辰戦争により藩政がひっ迫していた藩が多かったこともあり、廃藩置県は滞りなく行われた。岩倉具視らの遣外使節団の出発後には「留守政府」責任者を任され、学制を制定。兵部省を撤廃して陸海軍省を設置し、陸軍元帥に就任した。陸軍大輔の山県有朋が「山城屋事件」という汚職事件を起こした際には、寛大な処置によりこれを解決した。しかし、対朝鮮外交をめぐって「征韓論」が起こり、明治六年政変で江藤新平や板垣退助らとともに政府を辞し、鹿児島へ下野した。
鹿児島では私学校を作って勢力を増し、独立勢力と化した。とはいえ、西郷本人には当初は政府に対して決起する目的は毛頭なく、私学校の設立は、困窮した士族に技術を学ばせて手に職をつけさせ、社会復帰を促すためであった。
時を同じくして、各地で不平士族の不満が高まり、士族達の蜂起が相次いだ。これに対し西郷は、部下や私学校の生徒達に最後まで「蜂起してはならない」と説得していた。明治8年(1874年)には司法卿・江藤新平が佐賀の乱をおこし、西郷に援軍を要請するが、西郷はこれを拒否。2年後の「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」と相次いで3士族の反乱が発生するが、西郷はいずれの反乱にも黙して加担しなかった。
しかし、鹿児島駐屯軍が弾薬を勝手に運び出したことで私学校生徒達が暴発し軍隊を襲撃して弾薬を奪還。さらに東京の大警視・川路利良が密偵を潜入させていたことが判明。ついに明治10年(1877年)、西郷は私学校生徒と士族達に押されて挙兵。日本史上最後の内戦西南戦争が勃発した。
熊本城を目指して進軍したが、苦戦の間に政府軍が到着し撤退。田原坂(熊本県)などで激戦するも敗北を重ね、乾坤一擲を狙った和田峠(宮崎県)の戦いで大敗し可愛岳(えのだけ)から三田井を経由して鹿児島へ敗走。城山の戦いで腹部と太腿に銃弾を受け負傷し、最期を覚った西郷は「ここらでよか」と別府晋介に言い残して首を打たせ、己は腹部に脇差を深くめり込ませた。享年51歳。

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