大久保利通とは、薩摩藩士・内務卿である。 画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A (上)志士時代の大久保利通(一蔵)。(中)明治4年に撮影された、洋装に佩刀姿の珍しい写真。このころはまだ髭を生やしていない。左は同僚の薩摩藩士・税所敦。(下)もっとも有名な大久保利通の肖像写真。不平等条約改正の交渉のさなか、ビスマルクをまねて髭を生やすようになった。 【生没年】1830-78 【出身地】薩摩 鹿児島城城下の加治屋町に、下級武士・大久保利世の長男として生まれる。幼名は小助(しょうすけ)で、幕末の動乱期には「大久保一蔵」と名乗った。 弘化3(1846)年に記録所書役助に任ぜられたが、嘉永2(1849)年に発生したお家騒動「お由羅騒動」(高崎崩れ)により父・利世が鬼界ヶ島(硫黄島)に配流され、小助も免職の上謹慎を命ぜられた。藩主・島津斉興が引退して新藩主に島津斉彬が就任した際には小助は記録書から蔵所に転職し、利世も鹿児島に帰還することを許されている。 幼少期以来の親友である西郷吉之助(隆盛)や有村俊斎とともに尊攘派として行動を開始し、斉彬が急逝した後は西郷ら同志とともに「精忠組」を結成し、義挙を達成しようとしたが、国父・島津久光になだめられて中止し、かつて盟友・西郷が斉彬に取り入ったように、久光の挙兵・上洛計画に従事することとなった。そうして久光に忠誠を認められて御小納戸役に命ぜられ、上級武士の出である小松帯刀や中山尚之助とともに政務に積極的に携わった。このさなか、近衛家と久光の挙兵・上洛についての打ち合わせを行った。 文久2(1862)には久光に随行し、江戸で久光の官位獲得のため奔走するも、久光は藩主の「父」という立場であったため、官位の獲得には成功しなかった。その翌年、御側役兼小納戸頭取となり、薩英戦争の全面指揮にあたった。戦闘は薩摩とイギリスの間で痛み分けに終わり、大久保は江戸で講和役にあたった。八月十八日の政変の後は久光に従って公武合体運動に着手し、文久4(1864)年には京都にて参与会議を行い、その参与会議には前土佐藩主・山内容堂?、越前藩主・松平春嶽?、宇和島藩主・伊達宗城?、将軍政事職・一橋慶喜?などが召喚されたが、慶喜の解散宣言により、ほどなくして分解となった。西郷吉之助の沖永良部島からの召喚の後には、久光と西郷のパイプ役となり、京都や大坂を往復し。公卿・岩倉具視の協力を得て朝廷工作に力を注いだ。 慶応3(1867)年には長州に赴き、前年に坂本龍馬の仲立ちで締結された薩長連合を基に出兵の要請を受諾した。将軍・徳川慶喜の大政奉還から王政復古の大号令の発布に至るまでの流れにおいて、大久保は重要な役割を担っている。これら一連の流れに当初は岩倉ら公卿は躊躇する様子を見せたが、大久保は彼らを説得し、慶喜に辞官納地を命じたのである。当然、「海外情勢の理解が乏しい公卿たちが自身に政務の執行を依頼する」と楽観視していた慶喜は激怒し、戊辰戦争の火ぶたが切られた。かくして旧幕府は敗北し、薩長土肥の四藩連合により、天皇を主権とする新政府が樹立された。 大久保は参与に就任し、当初は大阪(「大坂」から「大阪」に名称を変更)に遷都することを提案したが、会議の結果、総裁局顧問・鎮将府参与に就任し、江戸に遷都し、江戸の名称を「東京」に改めた。1869(明治2)年には木戸孝允(桂小五郎)や広沢真臣?とともに版籍奉還に着手した。この功績により、賞典録1800石と従三位を賜った。 1870(明治3)年には勅使・岩倉具視とともに鹿児島に赴き、隠遁生活を送っていた西郷隆盛を召喚し、西郷とともに参議に就任して廃藩置県に着手した。1871(明治4)年6月からは大蔵卿に転任、遣欧米全権副使に任ぜられ、岩倉や木戸孝允らとともに渡欧した。 西郷・板垣退助ら留守政府内に征韓論が持ち上がるや、1873(明治6)年5月に帰国し、参議として西郷・板垣ら征韓論派を相手取り「内治優先」を力説し、征韓を中止させ、結果として西郷や板垣らが政府を辞することとなった。同年11月には内務卿に就任し、政府の強大な独裁者となった。1874(明治七)年には旧司法卿・江藤新平が佐賀で反乱を起こし、その鎮圧にあたった。佐賀の乱の終結後、大久保自らが裁判を行い、江藤の申し開きを一切許さずに、裁判終結後の夕方に「即刻斬首」の判決を下した。のちに、西郷の弟・西郷従道と共謀して台湾出兵を実行した。翌年、木戸孝允と協調して立憲政体への移行を計画し、同時並行で「讒謗律」や「新聞紙条例」を発令し、政府への反抗の芽を摘んだ。1877年(明治10)年にはかつての盟友・西郷隆盛が西南戦争を勃発させる。当初は士族のいかなる勧誘にも応じなかった西郷がとうとう反乱を起こしたという事実を受け止め切れていなかったが、それが事実であることが判明すると「そうか、そうか」とつぶやき、それ以上は何も言わなかったという。大久保は鎮圧に回ったが、西郷戦死の報が届くや、大久保は慟哭し「おはんさぁらの死とともに、新しか日本が生まれる。強か日本が」と盟友の死を悼んだ。 1878(明治11)年5月14日、東京清水谷(四ッ谷の紀尾井坂から少々離れている)にて、馬車に乗っているところを旧加賀藩士族・島田一郎ら六名の凶刃に斃れた。享年四十九歳。