岡田以蔵は、江戸時代末期の志士である。田中新兵衛?や桐野利秋?、河上彦斎?とともに、「幕末四大人斬り」と称される。 生没年:1838~65 (肖像写真並びに肖像画・錦絵ナシ。インターネット上で「岡田以蔵の写真」として紹介される画像は、幕臣で軍艦操練所教授方手伝出役の岡田井蔵(おかだせいぞう)か、海援隊隊士の近藤長次郎の写真である)
岡田以蔵は1838年(天保9年)、足軽の家の子に生まれた。以蔵は幼少期から「剣術で身を立てて出世したい」と考えていたが、家が大変貧しかったので剣術道場に通うことはできず、少年時代の以蔵は自宅の庭で一人剣術修行に励んでいた。 1852年、数えで15歳の時、以蔵に転機が訪れる。以蔵より9歳年上の武市瑞山(半平太)が「一人で剣術修行に励んでいる子供がいる」という以蔵の噂を耳にし、その以蔵の様子を目にして才能を見抜いたのである。 「一人で木刀をふるっちょるだけじゃ、剣術は上達せんき。どうじゃ、我(あ)しが教えちゃらあよ」 「ぜひお願いしますき」 瑞山は以蔵を大切に扱い、瑞山が藩の費用で江戸に留学することが決まった際には以蔵も同行させ、桃井道場で剣術の極意を学ばせた。こうして、以蔵は瑞山を師と仰ぎ、心酔した。 翌年にはペリーの来航に伴い、国内情勢は混乱に陥った。しかし、以蔵は学問に関しては完全な素人で、具体的な思考を抱くことができなかった。 1861年、以蔵は瑞山の命に従い、瑞山が党首となっている土佐勤王党に所属した。そうして、瑞山が政敵とみなし、以蔵に暗殺指令を出した人物をことごとく粛清していった。詳細は「以蔵が粛清した人物」の項で述べる。 以蔵が土佐勤王党に加盟した翌年、瑞山は土佐藩の政治の主導権を握り、「白札郷士」となった。このころの土佐藩や長州藩の攘夷派は公家と結び、朝廷の政治を動かすことのできる立場にあった。攘夷を「天皇の意思」として、開国派を次々と屠り、「天誅」のもとに自らの殺害行為を正当化した。 その中で、以蔵は本間精一郎殺害の一件で、自らの名声を高めたのであった。本間精一郎は越後出身の人物で、幕閣の中でも西洋の事情に明るかった川路聖謨に仕官していた経歴を持つ。彼は尊王派であったため、京都入りして長州や薩摩の尊王派や攘夷派と交流を持ったが、かれは開国派に通ずる意見を持っていた。それだけなら知識人として活躍できたかもしれないが、彼は性格に難があり、尊王派からも攘夷派からも不信の目を向けられていた。例えば自らの意見と対立した長州藩閥から離脱したのち、薩摩藩閥に所属する際、かつて所属していた長州藩閥を散々誹謗中傷し、しかも藩の機密情報まで暴露するという人物で、これが「あいつは自身の立場が悪くなれば誰でも敵に売りかねない」と彼の信用を大きく落としていた。 ある日、本間の顔なじみの大音竜太という人物が「近頃、君は狙われているから、兜でもかぶって歩いていたほうがよっぽど安全だ」と忠告したが、本間は「兜か。そりゃいいな」と笑っててんで相手にしていなかった。この時点で、大音も半分は見放していたと思われる。本間は、数少ない友人の言を聞き入れずに危ない橋を渡り続けたことを後悔することとなる。瑞山の命を受けた以蔵とその親友の薩摩藩士・田中新兵衛により、本間は暗殺された。その死体は滅多切りにされ、どうにか人の形を保っているほどであったという。 この本間精一郎暗殺以来、以蔵を取り巻く環境が悪化していく。1863年の八月十八日の政変で、長州や土佐の攘夷派や公家の攘夷派が京から追放された。これは攘夷派にとって、それまでの殺害行為に叫んでいた「天誅」が通用しなくなったことを意味した。これで、以蔵は一時行き場をなくす。その中で、土佐勤王党時代の友人で、政治方針の不一致から党を離脱し、脱藩していた坂本龍馬が以蔵を神戸海軍操練所に招き、 「剣術がだめなら、西洋の学問で身を立てりゃええき。以蔵くん、我(あ)しと共に航海術を学ぼう」 と入塾を勧めた。 しかし、勉強の才能がなかった以蔵は操練所での勉強を苦痛に感じ、ひそかに操練所を去ったのち、酒びたりの日々を送っていた。その中で、以蔵は酒屋で町人と些細なことで喧嘩になり、京都の町奉行に逮捕された。本名を名乗ると素性がばれる危険性があったため、自らを「土佐出身の無宿人の土井鉄蔵」と名乗った。土佐出身と名乗ったことで身柄を土佐に引き渡され、即刻収監された。収監の際、瑞山は以蔵を 「お前(マン)のような馬鹿者(べこのかあ)は早く死んでくれりゃよかったがよ」 「昔からお前の世話を焼いちょったがも、もともと粗暴だったがやき縁を切っちゃろうとも思っとったが、お前の親から頼まれて仕方なく面倒を見ていただけじゃ。本間の一件以来、もはや完全に見放したがよ」 と罵倒した。 ほどなくして以蔵に自供させるため、苛烈な拷問が行われたが、以蔵はその拷問に早くも耐えかねて泣き叫び、これまでの暗殺事件が土佐勤王党や首魁・武市瑞山の主導であると自供した*1。この一件で瑞山は 「以蔵のような泣きみそ(泣き虫)は日本中のどこを探してもいないだろう」 と激しくなじった。 以蔵の自供により、以蔵はもちろん、瑞山などの入牢中の土佐勤王党員に切腹や死罪が言い渡された。 1865年5月11日、以蔵は宣告通り斬首された。享年は数えで27歳であった。さらに瑞山はその一か月後、これまで誰も成し遂げたものがいないとされる三文字の切腹により、凄絶な最期を遂げ、残りの同志も刑場の露と消えたのであった。 君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空 以蔵の辞世の句である。