勝海舟 の変更点
勝海舟は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した幕臣・海軍卿である。 生没年:1823~1899(文政六~明治三十二) 出身地:江戸 |&attachref(./Kaishu_Katsu_1.jpg);|&attachref(./200px-Kaishu_Katsu_2.jpg);| |&attachref;|&attachref(./173px-勝海舟.jpg);| |&attachref(./DSC_4718~2 (1).JPG);|&attachref(./173px-勝海舟.jpg);| &size(10){(左上)(右上)(右下)の画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F (左上)1860年、渡米時にサンフランシスコで撮影。(右上)戊辰戦争ごろに撮影された壮年の勝海舟の写真。(左下)1880年ごろに明治天皇に提出するため撮影された写真。刑部芳則著『明治をつくった人びと 宮内庁三の丸尚蔵館所蔵写真』より抜粋。(右下)晩年の勝海舟。}; *幼年期 [#q5bbf299] 旗本・勝小吉の長男として江戸本所に生まれた。幼名は麟太郎。父親は幕臣の中でも身分が低く、おまけに放蕩者であったため生活は困窮を極めていたが、窮地に陥っている者には理由がどうあれ救いの手をさしのべるという義侠心に富み、自身より立場が上の人物にも歯に衣着せぬ物言いをする性格から、市井の多くの人にヒーローとして慕われたという。 麟太郎少年は従兄弟で剣豪の&ruby(おだにのぶとも){男谷信友};(精一郎)に剣術を習い、のちに男谷の一番弟子の島田虎之助(中津藩士、のちに勝が蘭学を学ぶきっかけを作る)にも学んだ。麟太郎少年は熱心な稽古ぶりを島田に認められ、免許皆伝の腕前となった。 しかし、9歳の時に道場から帰る途中、野犬に睾丸を噛まれるという事故に遭っている。一時は生死をさまようが、父・小吉の賢明な看病や水垢離により回復し、一命をとりとめた。 少年時代の麟太郎の生活は相変わらず貧乏のどん底で、正月に餅を買えないほどの有様であった。麟太郎が十二歳の時、「おいらも餅を食べたい」とねだるのを見かねた母親が親せきに頼み、餅を分けてもらえることになった。かくして、親せきの家にまで餅を取りに行った麟太郎であったが、餅を橋の上に落してしまった。そうして、あわてて餅を拾っていると周りの大人たちに「武士の子が何をしているんだ」とからかわれた。これが相当こたえたのか、麟太郎少年は貰った餅を橋から川に全部投げ捨てた。母親も、憔悴した様子の麟太郎の様子を見て何も言うことができなかったという。 *青年期 [#a99c75d3] 剣の師の島田は、蘭学者の伊東玄朴(佐賀藩出身)と親交があった縁で、「剣術は基本として必ず学ぶべきことだが、それだけでは列強との合戦になった場合、銃火器を用いる列強の侵略からわが国を守ることはできない。まずは西洋の学問を学び、そこから兵術と呼べるものを広く学びなさい」と麟太郎青年に西洋式兵術の収得を勧めた。当初、麟太郎青年は、蘭学の大家とされた岡山藩の&ruby(みつくりげんぽ){箕作阮甫};に弟子入りを志願するが、「私が蘭学を教える目的は西洋の医術によって一人でも多くの患者の命を救うことであって、君が学びたいような謀反人の兵術ではないから他をあたってくれ。そして二度とうちに来ないでくれ」とにべもなく断られてしまう((箕作が勝の入門をにべもなく断った背景には、天保の改革が行われる中で、大目付の鳥居耀蔵により蘭学者に対して激しい弾圧がくわえられていたことが関係している。西洋砲術の研究家・高島秋帆は近代的な兵法を老中・水野忠邦に提言し、忠邦も秋帆の提言を受け入れたのだが、鳥居の提言した戦国時代以来の旧来の砲兵作戦は「前時代的で参考にならないからもっと勉強してこい」と退けられた。この一件で鳥居は秋帆を逆恨みし、讒言を繰り返して秋帆を永牢(終身刑)に追い込み、秋帆は死罪を宣告されるまで追い込まれたのである(のちに鳥居の失脚に伴い釈放)。この頃大っぴらに西洋砲術の手ほどきを行うということは、秋帆の二の舞になることを意味していたのである。ややしばらくして、勝が新設の軍艦教授所の教授型頭取に任命された際は、箕作は勝に弟子入りをにべもなく拒絶したことを謝罪し、両者は和解した))。次に、箕作の弟子であった永井青涯に弟子入りを志願したところ受け入れられ、永井のもとで蘭学を学んだ。オランダ語の辞書「ズーフ・ハルマ」を独力で2部筆写し、1部を販売して蘭学の勉強のための資金に充ててもいる。 嘉永3(1850)年、江戸赤坂に蘭学の私塾を開いた。この頃、逃亡中の高野長英と面識がある。「氷川清話」に高野長英についての記述があるのは、この出来事による。蘭学を享受する傍ら、諸藩の求めに応じて自身の蘭学の知識をフル活用して大砲の製造を試みた。そのころ、砲術を教えていた佐久間象山に出会い、佐久間に教えを乞うこととなった。やがて、佐久間の自邸に頻繁に出入りするようになった勝は、佐久間の書いた「海舟書屋」の額を気に入り、「海舟」と名乗るようになった。また、勝はのちに妹を佐久間のもとへ嫁がせており、義兄弟の関係ともなっている((勝より年上の佐久間が勝の義弟となるという少し奇妙な関係だが))。 嘉永6年(1853年)、浦賀沖にペリーが来航すると、老中の阿部正弘が意見を公募した。この時、勝は海軍の必要性や、その資金作りのために欧米諸国と外交を行い、それによって若い人材を育成するべきであることを説く内容の意見書を提出した。 当時、「外国船が確認されたら有無を言わさず砲撃せよ」といった意見が多い中ではるかに優れた意見であった。この意見書の内容を拝読し、勝に才能を見出したのが勝と同じ開明的な思想を持つ幕臣・大久保一翁である。大久保とその同僚の&ruby(いわせただなり){岩瀬忠震};の引き立てで、勝は幕臣となった。特に大久保とは開明的思想の点でウマが合った。 安政2年(1855年)、幕府はオランダ人から公開技術を学ぶ計画を立て、その監督に&ruby(ながいなおむね){永井尚志};を任命し、勝らを長崎に送る。これが長崎海軍伝習所のはしりとなり、諸藩の藩士もこれに参加した。この伝習所には、榎本釜次郎(武揚)や五代才助(友厚)など、後の明治政府の重鎮が在籍していた。勝は伝習所のリーダーとして航海技術の収得に努め、このさなか薩摩藩に立ち寄って藩主の島津斉彬に面会している。余談だが、同じくリーダーとして勤務していた幕臣・中島三郎助とは反りが合わなかったという。 安政6年(1859年)の1月、勝は江戸に帰還し、講武所内に新設の軍艦教授所の教授型頭取に任命された。しかし、大老・井伊直弼の「安政の大獄」により大久保と岩瀬((謹慎から数か月後に急死。持病が悪化したと言われているが、井伊への恨みによる自殺説も当時からささやかれた))が幕政から外され、両名に謹慎命令が下されたことで勝は後ろ盾を失うこととなった。 *渡米 [#ve59be6e] 安政7年(1860年)、幕府は日米通商条約の批准のために施設をアメリカに派遣したが、これに勝も同行することとなった。勝は妻子に「ちょいと品川まで行ってくらぁ」と言い残して咸臨丸に乗船し、太平洋に乗り出した。勝は艦長として乗船したが、指導は提督の木村芥舟や米国人・ブルックらの船員が行った。この措置にプライドをいたく傷つけられ、またひどい船酔いを患っていた勝は航海中は何もできず、到着するまで自室にこもっていたという。 ともあれ、咸臨丸は無事米国に到着し、西洋の文物に触れて勝は開国思想を強めていった。同行した人物に福沢諭吉や中浜万次郎がおり、福沢とは前述の一件から仲が悪かったという。 アメリカから帰国した勝は、自身の能力や米国で得た知識を十分に生かせる職務を与えられなかった。後ろ盾になってくれる先輩格の幕臣がいなかったことも原因の一つだが、父親譲りの、目上の人物にも歯に衣着せぬ物言いをする性格が嫌われたためでもあった。老中からアメリカの視察の結果を聞かれた際、よせばいいのに「我が国とは違い、メリケンでは才能のある人物が政権を担当しております」と皮肉を言ったのであった。結局彼は講武所で教鞭をとりつつ、その機会を待つほかなかった。 *幕末の動乱へ [#b9457ac8] 文久2年(1862年)、勝は政治の中枢にカムバックすることができた。薩摩藩国父・島津久光が勅使・大原重徳とともに江戸に下向し、一橋慶喜を将軍貢献職に、福井藩主・松平春嶽を政事総裁に据えた。松平が大久保一翁を復帰させ、大久保が勝を復帰させたことで、勝は軍幹部行並に抜擢された。 この時期、勝は松平の参謀役で懐刀的存在であった横井小楠と面会している。横井の諸藩や幕府などの垣根を取り払った政府を創設する思想に共鳴した勝は、横井を「先生」と生涯あがめている。「氷川清話」でも、'''「おそろしい人物」'''(原文ママ。ここでの「おそろしい人物」とは、「大人物」という解釈でかまわない)として横井と西郷隆盛の名前をあげている。 これとほぼ近い時期に、土佐出身の脱藩浪士・[[坂本龍馬]]が勝の邸宅を訪ねている。当時龍馬は「勝が国を列強に売り払おうとしている」という噂を耳にして、ことと次第によっては勝を暗殺するつもりで千葉道場の跡取り・千葉重太郎と共に勝の邸宅を訪れたが、勝は「お前さんらは俺を斬りに来たんだろう?俺を斬るんなら、俺の話を聞いてからでも遅かぁねえよ」と龍馬らを説得し、世界情勢を語って聞かせた。龍馬は勝の改名的な思想に共鳴し、勝に弟子入りした。 翌年、勝は関西に赴任した。幕府と諸藩からなる海軍の創設の準備をするため、神戸海軍操練所を解説しようとした。これは、幕臣の立場にある勝が幕府の将来というよりは、日本の将来を見据えていたことを意味する。勝は尊王攘夷派の多い長州藩出身の人間とも出会い、果ては公家の&ruby(あねがこうじきんさと){姉小路公知};にも海防の重要性を説いた。だが、姉小路は勝の教えを理解して実行する前に突然誰とも知れぬ者に襲撃されて命を落とす。一説には、勝からの教えを受け、公家の中でも珍しく開明的思想を持ったことにより、過激な攘夷派により「裏切り者」と見なされ殺害されたといわれる。 将軍・徳川家茂は勝の解剖の重要性についての意見を聞き入れ、同年3月に神戸海軍操練所の建設を許可した。 同年八月十八日の政変の結果、会津藩や薩摩藩により過激な尊王攘夷派が京都から一掃された。これと同時に公武合体政権が樹立した。しかし、一橋慶喜は幕府中心の政権の樹立を狙っていたため、公武合体政権の主導者であった島津久光・松平春嶽らと対立することとなった。そうして、勝もまた慶喜と対立することとなった。そもそも、将軍中心主義者の慶喜と、新政府設立主義者の勝とでは水と油の間柄であった。 9月、大坂にて勝は薩摩藩の重鎮・[[西郷吉之助>西郷隆盛]](隆盛)と面会した。そうして、西郷に「西郷さん、幕臣のあたしが言うのもなんですがね、幕府にゃ人材がほとんどいませんからもう保たねえでしょう。ですからね、あんたのところで雄藩連合の創設について、よくお考えになった方がいいとあたしゃ思いますね」と忠告した。西郷は、幕臣の勝からまさかこうした意見を聞くとは予想していなかった。西郷は立場上は対立関係にあるとはいえ、勝の見識やあけすけな人柄に惹かれたという。 文久4年(1864年)、長州の三家老の国司&ruby(ちかすけ){親相};(信濃)・益田&ruby(ちかのぶ){親施};(右衛門介)・福原&ruby(もとたけ){元僴};(越後)が禁門の変の責任を取って自害したため、長州征伐は戦闘に発展する前に終了した。その裏では、勝の説得を受けた西郷が長州藩の処分を寛大にしようとした動きがあったのである。しかし、これがもとで神戸海軍操練所には「幕臣の勝が、反幕府勢力を育成している」という事実無根の疑いが生じた。元々慶喜と対立していた勝は江戸への期間を余儀なくされ、軍幹奉行も免職となった。翌年には神戸海軍操練所の閉鎖を余儀なくされた。 勝は行き場をなくした門人の龍馬や陸奥陽之助(宗光、紀州藩士)、菅野角兵衛(千屋寅之介、土佐藩士)などを西郷に預け、江戸で生活を送っていた。開明派の幕臣は幕政改革のために勝を推薦する声もあったが、保守派の幕臣は頑として首を縦に振らず、武力により長州を征伐し、幕府の意向を天下に再び知らしめて地に落ちた評判を回復しようと躍起になっていた。しかし、龍馬による薩長連合により幕府軍は連戦連敗を重ねた。そこへ持ってきて将軍・徳川家茂が弱冠20歳にして病死した。勝は自身の理解者が急逝したことへのショックから、自らの日記に「徳川家、今日滅ブ」と書き残している。 次期将軍に就任した一橋(徳川)慶喜は戦闘を続行しようともくろむが、小倉口で司令官を務めた唐津藩主・&ruby(おがさわらながみち){小笠原長行};が逃亡したことで、戦闘の続行が不可能となった。慶喜は長州と交流経験のあった勝を停戦交渉役に命じた。勝は広島・宮島で交渉を行ったが、幕府軍の敗色が濃厚だったため長州側の使者・広沢兵介(&ruby(さねおみ){真臣};)に足許を見られる形で交渉は難航し、辛うじて征長軍撤退の際は追撃しないという約束を交わしただけに終わった。再交渉の余地を残すことを相手側に仄めかしたが、慶喜が停戦の勅命引き出しに成功したことでそれも無駄になり、慶喜の勝手な行動に腹を立てた勝は辞表を提出し、江戸に帰ってしまった。そうして、大政奉還がなされ、一安心したのもつかの間、勝の心をえぐる事件が1867年11月15日に発生する。愛弟子の坂本龍馬が、京都近江屋で何者かに暗殺されたのである。勝はしばし悲しみに浸ったのち、龍馬の遺志を継ぐことを決意した。その思いが、後述する江戸無血開城につながるのである。 *江戸城無血開城 [#ce32650a] 慶応四年(明治元年、1868年)、戊辰戦争の開始および鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北し官軍の東征が始まると、幕府の要職を罷免されていた勝は、かつての勝の能力を高く評価していた老中・板倉&ruby(かつきよ){勝静};によって、江戸幕府最後の陸軍総裁に起用された。鳥羽・伏見の戦いに敗れた慶喜は海路で江戸へと逃げ帰った。江戸城内では官軍への恭順派と官軍との徹底抗戦派に分かれていた。慶喜は官軍への恭順を決意し、徹底抗戦派の小栗上野介を罷免し、フランスの軍事支援を拒否した。そうして勝を陸軍総裁に命じ、大久保一翁を会計総裁に命じた。もはや、幕府内に勝と大久保の二人以外にかつてないほどの混乱に対処できる人物はいなかったのだ。慶喜はこののち上野・大慈院に隠棲した為、勝が事実上の幕府の最高権力者となった。 同年2月15日、有栖川宮熾仁親王を大総督にたてまつった東征軍が京都を出発した。勝は、内戦をできるだけ早く終結させ、日本の独立を維持することであった。そのために、江戸城の総攻撃の中止が先決であると考えたのだ。まず、恭順に反対するであろう近藤勇ら新選組に「甲州にいる新政府軍を鎮圧してくれ」と言葉巧みに誘導し、江戸から遠ざけた。次に、東征軍参謀・西郷吉之助のもとに山岡鉄太郎(鉄舟)を送り、それと同時並行で英国大使館のアーネスト・サトウに面会し、ハリー・パークスを通じて西郷に「交渉に応じなければ、日本を戦場としてイギリスとフランスの代理戦争を開始する」と圧力をかけることで、交渉の手はずを整えた。 こうして、同年三月十四日、勝の努力は実を結び、西郷との交渉は成功した。その結果、徳川家は存続を許され、江戸城総攻撃は中止され、さらに徳川慶喜は助命された。 *維新後の勝 [#c129b12b] 徳川幕府の死に水をとった勝だが、維新後は徳川宗家や旧幕臣の名誉回復のため奔走している。明治二年(1869年)に安房守となって外務大丞、兵部大丞に任じられ、明治五年(1872年)には海軍卿に就任し、海軍の発展に尽力した。これらの働きにより、山岡鉄舟や榎本武揚、大鳥圭介など旧幕臣の人材を政界に呼び寄せることに成功した。 また、西南戦争後には逆賊として扱われることとなった西郷隆盛の名誉回復に努めた。前述のとおり、勝は西郷の人柄を高く評価しており、また西郷が江戸城無血開城の提案を受け入れ、旧主・徳川慶喜の命を救ってくれたためでもある。'''「濡れ衣を 干そうともせず 子供らが 為すがまにまに 果てし君かな」'''。これは、勝からの旧友への鎮魂歌である。他にも旧幕臣の就労先の世話や事業への資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用し、維新直後から30余年にわたって続けた。 晩年は東京・氷川の邸宅で叙述に専念した。亡くなる直前まで鹿鳴館政策や日清戦争など、政府の政策については歯に衣着せぬ批判を行っていた。これらの批判は、「氷川清話」や「海舟語録」に詳しく記載されている。江戸言葉まじりの証言は、現在もなお勝の人となりや「一旧幕臣から見た明治の日本の様子」を伝えている。 明治二十二年(1899年)一月十九日、勝は風呂から上がり、トイレに寄った後で昏倒した。そうして、侍女に生姜湯を持ってこさせようとしたが、「間に合わない」ということで持ってこられたブランデーを飲み、そのまま脳出血により意識が途絶え、息を引き取った。 勝海舟、享年77歳_____。最期の言葉は「コレデオシマイ」であったと伝わる。 *コメント [#x0ca8e57] #comment *閲覧者数 [#pfa1b743] |現在|&online;| |今日|&counter(today);| |昨日|&counter(yesterday);| |合計|&counter;| |