幕末の人物 Wiki
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> 中山忠光
中山忠光
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中山忠光とは、公卿の一人である。 |&attachref(./330px-Nakayama_Tadamitsu.jpg);|&attachref(./Nakayama_Tadamitsu_2.jpg);| &size(10){画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%BF%A0%E5%85%89 ウィキペディアの「中山忠光」のページより引用。(左)『近世文武英雄伝』(月岡芳年画)より。(右)中山忠光の肖像画。}; &br; 生没年:弘化2年4月13日(1845年5月18日)~元治元年11月15日(1864年12月13日) 出身地:山城国(京) &br; 大納言・中山&ruby(ただやす){忠能};の第七子として生を受けた。しかし、のちに忠能の長男・&ruby(ただなる){忠愛};の養子になったため、戸籍上は忠能の孫となっている。 姉に孝明天皇の后となった慶子がおり、この慶子と孝明天皇の間に生まれた男児・&ruby(さちのみや){祐宮};が孝明天皇の崩御後、「明治天皇」として即位していることから、わずか7歳差ではあるが、忠光は明治帝の母方の叔父であるといえる。 わかりやすく言えば、『サザエさん』における磯野カツオ・ワカメ姉妹とフグ田タラ夫のような関係である。タラ夫はカツオやワカメをそれぞれ「カツオ兄ちゃん」「ワカメお姉ちゃん」と呼んでいるが、二人は戸籍上はタラ夫の叔父・叔母にあたるのである。 &br; 安政五年(1858年)、忠光14歳のとき、これまで中山家で育てられていた祐宮が宮中に戻ると、忠光は侍従として付き従い、宮中に赴いた。 しかし、忠光は公卿の中でも気性が荒く、かなり過激な人物であった。例えば、文久二年(1862年)、当時京都三条に滞在していた土佐藩白札郷士・[[武市瑞山]]のもとをわざわざ訪れて刺客を貸してくれるよう依頼することがあった。 もちろん、過去の歴史上にわざわざ武士の邸宅を訪ね、刺客の貸与を依頼する人物はこれまでいたためしはない。 &br; とはいえ、気性の荒さは忠光の生まれもった性格だけが原因ではなく、中山家の家庭環境もその一因である。中山家は祐宮誕生の際に産屋を建てる金が無く、多額の借金をしていた。そのうえ、宮廷も貧しく、侍従としてお仕えしていた時に目の当たりにした祐宮の質素な生活が忠光の王政復古を掲げた過激な攘夷論に火を付けたと思われる。 &br; 更に、彼の気性の荒さに火をつけたのが、『孝明天皇の異母妹・和宮親子内親王の徳川将軍家への降嫁』という出来事である。 忠光は和宮降嫁に動いた久我建通(内大臣)・岩倉具視(左近衛権中将)・千種有文(左近衛権少将)・富小路敬直(中務大輔)・今城重子(少将掌侍)・ 堀河紀子(右衛門掌侍)ら『&ruby(しかんにひん){四奸二嬪}:』の殺害を声高に主張した。 言い出したら聞かない忠光に、武市は「岩倉や千草は謹慎中ですから、あの世送りにするのはやめておきましょう」と止めたが、それで「はいそうですか」と納得する忠光ではなかった。 そうして、「忠光が『四奸二嬪』の殺害を声高に主張している」という話が父・忠能の耳に入り、父は血気にはやる子を「それほどまでに彼らを殺したければ、まずはこの父を殺してからにしなさい」と説得してこれを抑えようとした。 父親の命がけの説得で、忠光も『四奸二嬪』の殺害を諦め、以降は過激な行動は鳴りをひそめ、おとなしくなった……訳がなかった。 &br; 確かに『四奸二嬪』の殺害こそ諦め、文久三年(1863年)の二月から国事寄人に就任し、政務にあたっていたものの、同年三月に土佐藩士・吉村寅太郎の誘いを受け、加茂行幸に供奉してからこっそり京を脱出し、摂津沿岸を経て長州まで逃げた。名を「森秀斎」と名乗り、この年の五月に発生した馬関戦争に参加した。この戦争には敗北したが、忠光は自ら軍艦・庚申丸に乗り込んで外国船を砲撃している。しかし、勝手に京都を離れるのは大罪なので、忠光はそれまで勤めていた国事寄人を罷免され、従四位下の官位返上の沙汰が下っている。 翌月には吉村とともに帰京し、久留米藩士・真木和泉や長州藩士・[[桂小五郎>木戸孝允]]、同藩士・久坂玄瑞とともに交流を持ち、会合を重ねていた。 このごろ、かねてより忠光の素行の悪さに手を焼いていた忠能は、武家伝奏・&ruby(ののみやさだいさ){野宮定功};((安政五年(1858年)に日米修好通商条約締結の勅許打診を巡って発生した、88名の公家たちによる抗議行動事件『廷臣八十八卿列参事件』において、岩倉具視や忠能とともに抗議活動に参加した経歴を持つ))に忠光の処分について質問した。野宮は忠能の質問にして「貴公がご子息をうんと叱って外出禁止にでもなされば、ご子息はおとなしくなり、ご子息への処分も軽くなることでしょう」と返答している。 &br; そうして、彼らにとってのビッグニュースが舞い込んできた。八月十三日に大和行幸が実行されることが決定し、攘夷親征の詔勅が出されたのである。 吉村は忠光を盟主に祭り上げ、同志の&ruby(ふじもとてっせき){藤本鉄石};・&ruby(まつもとけいどう){松本圭堂};らとともに『天誅組』を結成した。 『天誅組』はまず手始めに大和五条の代官所を襲撃し、代官・鈴木源内を殺害して「討幕」の鬨の声をあげた。 &br; しかし、彼らの天下は『三日天下』ならぬ『五日天下』で終わってしまった。 『八月十八日の政変』と呼ばれるクーデターにより、長州藩の尊王攘夷派はたちまち勢いを失い、彼らを頼みとしていた『天誅組』は孤立してしまったのである。 そこへもってきて、『天誅組』に力を貸していた戸津川郷士たちも、戦局が不利になったことで『天誅組』を見限った。度重なる同志の離反の最中、『天誅組』は作戦に関する意見の不一致から次第に仲間割れしていき、忠光ら「本隊」と「河内勢」に分裂することとなってしまった。 &br; 忠光ら『本隊』は各所を転戦したが、いたるところ敗戦であった。そうして『鷲家口の戦い』で多大な犠牲を払いつつも、忠光はどうにか長州に逃げ延びることができた。 辛くも逃げ延びた忠光は豪商・白石正一郎の邸宅で潜伏生活を送っていた。のちに藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、江戸幕府方の密偵に隠れ家を突き止められた。先だっての政変以来、禁門の変や第一次長州征伐により、長州藩内において佐幕派勢力(俗倫派)が勢いを盛り返していたのだった。 &br; この年の十一月十五日、豊浦郡田耕村の山の中で、忠光は幕府恭順派の5人の長州藩士に暗殺された。享年はわずか20才であった。その後、時勢の変化もあり、長府藩内(現:山口県下関市綾羅木)に建てられた墓を中心に作られた中山神社に祭神として祀られている。 *コメント [#x0ca8e57] #comment *閲覧者数 [#pfa1b743] |現在|&online;| |今日|&counter(today);| |昨日|&counter(yesterday);| |合計|&counter;|
中山忠光とは、公卿の一人である。 |&attachref(./330px-Nakayama_Tadamitsu.jpg);|&attachref(./Nakayama_Tadamitsu_2.jpg);| &size(10){画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%BF%A0%E5%85%89 ウィキペディアの「中山忠光」のページより引用。(左)『近世文武英雄伝』(月岡芳年画)より。(右)中山忠光の肖像画。}; &br; 生没年:弘化2年4月13日(1845年5月18日)~元治元年11月15日(1864年12月13日) 出身地:山城国(京) &br; 大納言・中山&ruby(ただやす){忠能};の第七子として生を受けた。しかし、のちに忠能の長男・&ruby(ただなる){忠愛};の養子になったため、戸籍上は忠能の孫となっている。 姉に孝明天皇の后となった慶子がおり、この慶子と孝明天皇の間に生まれた男児・&ruby(さちのみや){祐宮};が孝明天皇の崩御後、「明治天皇」として即位していることから、わずか7歳差ではあるが、忠光は明治帝の母方の叔父であるといえる。 わかりやすく言えば、『サザエさん』における磯野カツオ・ワカメ姉妹とフグ田タラ夫のような関係である。タラ夫はカツオやワカメをそれぞれ「カツオ兄ちゃん」「ワカメお姉ちゃん」と呼んでいるが、二人は戸籍上はタラ夫の叔父・叔母にあたるのである。 &br; 安政五年(1858年)、忠光14歳のとき、これまで中山家で育てられていた祐宮が宮中に戻ると、忠光は侍従として付き従い、宮中に赴いた。 しかし、忠光は公卿の中でも気性が荒く、かなり過激な人物であった。例えば、文久二年(1862年)、当時京都三条に滞在していた土佐藩白札郷士・[[武市瑞山]]のもとをわざわざ訪れて刺客を貸してくれるよう依頼することがあった。 もちろん、過去の歴史上にわざわざ武士の邸宅を訪ね、刺客の貸与を依頼する人物はこれまでいたためしはない。 &br; とはいえ、気性の荒さは忠光の生まれもった性格だけが原因ではなく、中山家の家庭環境もその一因である。中山家は祐宮誕生の際に産屋を建てる金が無く、多額の借金をしていた。そのうえ、宮廷も貧しく、侍従としてお仕えしていた時に目の当たりにした祐宮の質素な生活が忠光の王政復古を掲げた過激な攘夷論に火を付けたと思われる。 &br; 更に、彼の気性の荒さに火をつけたのが、『孝明天皇の異母妹・和宮親子内親王の徳川将軍家への降嫁』という出来事である。 忠光は和宮降嫁に動いた久我建通(内大臣)・岩倉具視(左近衛権中将)・千種有文(左近衛権少将)・富小路敬直(中務大輔)・今城重子(少将掌侍)・ 堀河紀子(右衛門掌侍)ら『&ruby(しかんにひん){四奸二嬪}:』の殺害を声高に主張した。 言い出したら聞かない忠光に、武市は「岩倉や千草は謹慎中ですから、あの世送りにするのはやめておきましょう」と止めたが、それで「はいそうですか」と納得する忠光ではなかった。 そうして、「忠光が『四奸二嬪』の殺害を声高に主張している」という話が父・忠能の耳に入り、父は血気にはやる子を「それほどまでに彼らを殺したければ、まずはこの父を殺してからにしなさい」と説得してこれを抑えようとした。 父親の命がけの説得で、忠光も『四奸二嬪』の殺害を諦め、以降は過激な行動は鳴りをひそめ、おとなしくなった……訳がなかった。 &br; 確かに『四奸二嬪』の殺害こそ諦め、文久三年(1863年)の二月から国事寄人に就任し、政務にあたっていたものの、同年三月に土佐藩士・吉村寅太郎の誘いを受け、加茂行幸に供奉してからこっそり京を脱出し、摂津沿岸を経て長州まで逃げた。名を「森秀斎」と名乗り、この年の五月に発生した馬関戦争に参加した。この戦争には敗北したが、忠光は自ら軍艦・庚申丸に乗り込んで外国船を砲撃している。しかし、勝手に京都を離れるのは大罪なので、忠光はそれまで勤めていた国事寄人を罷免され、従四位下の官位返上の沙汰が下っている。 翌月には吉村とともに帰京し、久留米藩士・真木和泉や長州藩士・[[桂小五郎>木戸孝允]]、同藩士・久坂玄瑞とともに交流を持ち、会合を重ねていた。 このごろ、かねてより忠光の素行の悪さに手を焼いていた忠能は、武家伝奏・&ruby(ののみやさだいさ){野宮定功};((安政五年(1858年)に日米修好通商条約締結の勅許打診を巡って発生した、88名の公家たちによる抗議行動事件『廷臣八十八卿列参事件』において、岩倉具視や忠能とともに抗議活動に参加した経歴を持つ))に忠光の処分について質問した。野宮は忠能の質問にして「貴公がご子息をうんと叱って外出禁止にでもなされば、ご子息はおとなしくなり、ご子息への処分も軽くなることでしょう」と返答している。 &br; そうして、彼らにとってのビッグニュースが舞い込んできた。八月十三日に大和行幸が実行されることが決定し、攘夷親征の詔勅が出されたのである。 吉村は忠光を盟主に祭り上げ、同志の&ruby(ふじもとてっせき){藤本鉄石};・&ruby(まつもとけいどう){松本圭堂};らとともに『天誅組』を結成した。 『天誅組』はまず手始めに大和五条の代官所を襲撃し、代官・鈴木源内を殺害して「討幕」の鬨の声をあげた。 &br; しかし、彼らの天下は『三日天下』ならぬ『五日天下』で終わってしまった。 『八月十八日の政変』と呼ばれるクーデターにより、長州藩の尊王攘夷派はたちまち勢いを失い、彼らを頼みとしていた『天誅組』は孤立してしまったのである。 そこへもってきて、『天誅組』に力を貸していた戸津川郷士たちも、戦局が不利になったことで『天誅組』を見限った。度重なる同志の離反の最中、『天誅組』は作戦に関する意見の不一致から次第に仲間割れしていき、忠光ら「本隊」と「河内勢」に分裂することとなってしまった。 &br; 忠光ら『本隊』は各所を転戦したが、いたるところ敗戦であった。そうして『鷲家口の戦い』で多大な犠牲を払いつつも、忠光はどうにか長州に逃げ延びることができた。 辛くも逃げ延びた忠光は豪商・白石正一郎の邸宅で潜伏生活を送っていた。のちに藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、江戸幕府方の密偵に隠れ家を突き止められた。先だっての政変以来、禁門の変や第一次長州征伐により、長州藩内において佐幕派勢力(俗倫派)が勢いを盛り返していたのだった。 &br; この年の十一月十五日、豊浦郡田耕村の山の中で、忠光は幕府恭順派の5人の長州藩士に暗殺された。享年はわずか20才であった。その後、時勢の変化もあり、長府藩内(現:山口県下関市綾羅木)に建てられた墓を中心に作られた中山神社に祭神として祀られている。 *コメント [#x0ca8e57] #comment *閲覧者数 [#pfa1b743] |現在|&online;| |今日|&counter(today);| |昨日|&counter(yesterday);| |合計|&counter;|