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> 木戸孝允
木戸孝允
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木戸孝允は、江戸時代末期の長州藩士、明治時代初期の官僚。西郷隆盛や大久保利通と共に、「維新の三傑」と並び称される。維新前の「桂小五郎」の名乗りでも知られる。 &attachref(./398px-Katsura_Kogorō.jpg); &attachref(./250px-Takayoshi_Kido_suit.jpg); &size(10){画像出典:いずれもhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81 ウィキペディア「木戸孝允」のページより引用。 (上)「桂小五郎」を名乗っていたころの木戸孝允の写真。撮影時期は慶応年間。撮影者は上野彦馬か。(下)明治期の木戸孝允。岩倉使節団に随行する前の写真か。}; |生没年|1833~77年| |身分|長州藩士、第2代文部卿、第2代内務卿| 長州藩医・和田昌景の長男として生まれる。数え年7歳で同藩士の桂家に養子入りして桂小五郎を名乗る。桂家では養子にも関わらず、年老いてようやく授かった待望の男児と言うことで、養父母からとても可愛がられて何不自由なく育った。養子入りから1年後に養父母が相次いで亡くなったため、実家の和田家に戻り、実の両親や次姉のもとで育てられた。 子供時代は病弱ながらも腕白で、萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて面白がるといういたずらに熱中していた。 ある日、いつものようにこのいたずらを実行しようとしたが、いい加減アタマに来ていた船頭に頭を櫂(オール)で殴られてしまう。しかし、小五郎少年は流血しながらもニコニコ笑っていたという。 &br; もともとは勉強が好きではなかったが、1849年に突如発奮して藩校・明倫館にて吉田松陰に師事し、1852年に江戸にて遊学し斎藤弥九郎に剣術を、江川太郎左衛門英龍に西洋砲術を習う。ペリーの浦賀来航の1853年には、江川の付き人として黒船を目の当たりにしている。またこの時期には短期間ながらも、浦賀奉行支配組与力の中島三郎助の邸宅に居候し、造船術を学んだ。 1858年以降、安政の大獄を境に薩摩や長州、水戸などの諸藩の尊王攘夷派の志士と親交を深め、同じく松陰の弟子であった旧松下村塾門下生の高杉晋作や久坂玄瑞とともに、長州藩内の尊王攘夷派の頂点に立つ。一方で、老中・間部詮勝の暗殺計画や伏見要駕策を唱えるなど、思想を過激化させていく師の吉田松陰を、松陰の友人で桂の義弟・来原良蔵とともに手を変え品を変えこれを諫めた。1859年には恩師の松陰が安政の大獄で処刑されたが、旧松下村塾門下生の伊藤俊輔(後の博文)や&ruby(しじぶんた){志道聞太};(後の井上馨)とともにこれを埋葬した。 &br; 1862年、公武合体政策に尽力していた老中・安藤信正が尊王攘夷派の水戸藩浪士らに襲撃されて負傷する事件が発生した。坂下門外の変である。桂の知人であった水戸浪士・川辺左治右衛門はこの襲撃に参加するはずであったが遅刻してしまい、これを恥じた川辺が桂の邸宅に赴き、桂の説得もむなしくその場で自害してしまった。これがもとで、桂にも坂下門外の変に加担したという嫌疑がかけられ、当初は穏やかに取り調べを行っていた奉行所が次第にいら立ちを見せ、桂はほぼ罪人と同格に扱われていたたが、開国論者で朝廷や幕府から注目されていた同藩士の&ruby(ながいうた){長井雅楽};のとりなしで事なきを得た。同年、長井は藩政の要職についており、藩論を尊攘から倒幕に転換させた。こののち、尊攘派が勢いを盛り返したことで開国論者の長井はクーデターにより失脚させられ、藩に内乱が起こることを憂いながら藩の命で自裁した。 1864年には新選組による池田屋事件やその2年後には蛤御門の変が発生し、久坂や吉田稔麿など、かつての同志の多くが死に絶えた。 池田屋事件の当日、桂は池田屋で同藩士の吉田稔麿や熊本藩士の宮部鼎蔵などと待ち合わせしていたが、予定されていた時間より大幅に早く到着してしまっていたため、少しの間散歩に出かけていた。これにより、桂は虎口を脱した。その後、定刻通りに池田屋に到着した者たちがどうなったかをいまさら記す必要性はないだろう。 この頃桂は、池田屋に集まっていた志士たちの頭目ということで新選組からのお尋ね者となっており、芸者の幾松(のちの木戸松子夫人)の助けを得て、身に藁を纏って潜伏生活を余儀なくされた。 やがて1865年、高杉晋作により藩論が倒幕に完全に転換すると、桂は帰藩して、前藩主の毛利敬親から「木戸寛治」の名を賜った。藩にとって桂は重要な人材であり、改名させることで「桂小五郎は病気で死にました」と幕府の調査をごまかす意図があった。写真が身分証明に使われていない時代に「ある人物が死んだことにして改名させ、幕府の目を欺く」という手口はしばしば行われており、幕府もその情報が嘘であることは察知しつつも、実質は黙認していた。 余談だが、高杉晋作も幕府の調査をごまかすために「谷潜蔵」という偽名を名乗っている。 翌年には土佐脱藩浪士・[[坂本龍馬]]並びに中岡慎太郎の仲立ちで、長州藩の代表として薩摩藩の実力者・西郷吉之助(隆盛)並びに大久保一蔵(利通)と薩長同盟を締結する。当初は木戸は薩摩と同盟を結ぶことに消極的であったが、龍馬の「もはや長州、薩摩一藩の問題ではないがです。内輪もめをしている間に西洋列強に侵略され、国が滅びますきに!」と説得を受けて同盟の締結に踏み切った。 幕府をすでに見限った薩摩は幕府との戦争に備えて大量の武器を所有しており、長州もその武器を欲していた。一方、薩摩はシラス台地といって、火山灰質の土壌でコメが育ちにくい環境だったため、長州の生産する米を欲していた。これにより、互いの藩の利益が一致したことで薩長同盟がなされたのである。 &br; 新政府成立後には政府官僚として太政官に出仕し、参与、総裁局顧問、参議に就任した。名も「木戸孝允」と改めた。 1868年には土佐藩士・福岡藤次(孝弟)や福井藩士・由利公正(三岡八郎)とともに「五箇条の誓文」を起草。これによって、明治新政府の基本方針が定まり、1869年の版籍奉還や1871年の廃藩置県、ならびに1872年の地租改正などの近代的な制度改革を殆ど抵抗なく進めることができた。この一連の改革は、多くの藩が戊辰戦争により財政的に疲弊していたことや、藩主の殆どが江戸生まれであることも一助となっていた。 1871年には大久保利通や伊藤博文とともに、岩倉具視率いる使節団に参加し、諸国の憲法を研究した。 1873年に帰国してのちは政府内においてフランスで見聞した憲法や三権分立性の重要性を唱え、国民教育や天皇教育の充実に務めた。また、木戸たちが留守にしている間、政府内で盛り上がっていた西郷隆盛の征韓論には大久保や岩倉とともに反対し、これによって西郷は政府を辞して郷里の鹿児島に帰った。 憲法の重要性を幾度も訴えたが、憲法の制定を時期尚早と考えていた大久保利通との関係は悪化する一方で、1874年の台湾出兵に際してはこれに反対し、一時政府を下野した。翌年の大阪会議では、将来の立憲制採用を協議して政府に復帰したが、大久保を批判する論調で会議に望み、もはや大久保との仲は修復不可能であった。この大阪会議により、木戸は参議を辞職した。 参議を退いてからは地方官会議議長や内閣顧問などを務めたが、この頃には明治元年から抱えていた慢性的な体調不良が悪化していた。大腸がんが肝臓に転移していたのである。 1877年2月、西郷隆盛が鹿児島にて反乱を起こす。西南戦争である。そのさなか、木戸は京都に出張中であったが、体調不良が再発し病臥していた。 同年、5月26日。木戸は、うわ言のようにこう呟いた。 '''「西郷よ、もういい加減にしないか」''' そう呟くと、木戸は松子夫人の見守るさなか、永遠の眠りについた。木戸孝允、享年45歳_____。松子夫人との間には子供がなかったため、木戸家の家督は、養子の正二郎が継いだ。 やがて、木戸の死から4ヶ月後、西郷は城山で戦死し、西郷の戦死からおよそ8ヶ月後には大久保は旧加賀藩士族6人に馬車を襲撃され、命を落としている。維新の三傑は1年もしない間に、相次いで鬼籍に入ったのである。 *コメント [#za5f70dd] #comment *閲覧者数 [#r7659027] |現在|&online;| |今日|&counter(today);| |昨日|&counter(yesterday);| |合計|&counter;|
木戸孝允は、江戸時代末期の長州藩士、明治時代初期の官僚。西郷隆盛や大久保利通と共に、「維新の三傑」と並び称される。維新前の「桂小五郎」の名乗りでも知られる。 &attachref(./398px-Katsura_Kogorō.jpg); &attachref(./250px-Takayoshi_Kido_suit.jpg); &size(10){画像出典:いずれもhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81 ウィキペディア「木戸孝允」のページより引用。 (上)「桂小五郎」を名乗っていたころの木戸孝允の写真。撮影時期は慶応年間。撮影者は上野彦馬か。(下)明治期の木戸孝允。岩倉使節団に随行する前の写真か。}; |生没年|1833~77年| |身分|長州藩士、第2代文部卿、第2代内務卿| 長州藩医・和田昌景の長男として生まれる。数え年7歳で同藩士の桂家に養子入りして桂小五郎を名乗る。桂家では養子にも関わらず、年老いてようやく授かった待望の男児と言うことで、養父母からとても可愛がられて何不自由なく育った。養子入りから1年後に養父母が相次いで亡くなったため、実家の和田家に戻り、実の両親や次姉のもとで育てられた。 子供時代は病弱ながらも腕白で、萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて面白がるといういたずらに熱中していた。 ある日、いつものようにこのいたずらを実行しようとしたが、いい加減アタマに来ていた船頭に頭を櫂(オール)で殴られてしまう。しかし、小五郎少年は流血しながらもニコニコ笑っていたという。 &br; もともとは勉強が好きではなかったが、1849年に突如発奮して藩校・明倫館にて吉田松陰に師事し、1852年に江戸にて遊学し斎藤弥九郎に剣術を、江川太郎左衛門英龍に西洋砲術を習う。ペリーの浦賀来航の1853年には、江川の付き人として黒船を目の当たりにしている。またこの時期には短期間ながらも、浦賀奉行支配組与力の中島三郎助の邸宅に居候し、造船術を学んだ。 1858年以降、安政の大獄を境に薩摩や長州、水戸などの諸藩の尊王攘夷派の志士と親交を深め、同じく松陰の弟子であった旧松下村塾門下生の高杉晋作や久坂玄瑞とともに、長州藩内の尊王攘夷派の頂点に立つ。一方で、老中・間部詮勝の暗殺計画や伏見要駕策を唱えるなど、思想を過激化させていく師の吉田松陰を、松陰の友人で桂の義弟・来原良蔵とともに手を変え品を変えこれを諫めた。1859年には恩師の松陰が安政の大獄で処刑されたが、旧松下村塾門下生の伊藤俊輔(後の博文)や&ruby(しじぶんた){志道聞太};(後の井上馨)とともにこれを埋葬した。 &br; 1862年、公武合体政策に尽力していた老中・安藤信正が尊王攘夷派の水戸藩浪士らに襲撃されて負傷する事件が発生した。坂下門外の変である。桂の知人であった水戸浪士・川辺左治右衛門はこの襲撃に参加するはずであったが遅刻してしまい、これを恥じた川辺が桂の邸宅に赴き、桂の説得もむなしくその場で自害してしまった。これがもとで、桂にも坂下門外の変に加担したという嫌疑がかけられ、当初は穏やかに取り調べを行っていた奉行所が次第にいら立ちを見せ、桂はほぼ罪人と同格に扱われていたたが、開国論者で朝廷や幕府から注目されていた同藩士の&ruby(ながいうた){長井雅楽};のとりなしで事なきを得た。同年、長井は藩政の要職についており、藩論を尊攘から倒幕に転換させた。こののち、尊攘派が勢いを盛り返したことで開国論者の長井はクーデターにより失脚させられ、藩に内乱が起こることを憂いながら藩の命で自裁した。 1864年には新選組による池田屋事件やその2年後には蛤御門の変が発生し、久坂や吉田稔麿など、かつての同志の多くが死に絶えた。 池田屋事件の当日、桂は池田屋で同藩士の吉田稔麿や熊本藩士の宮部鼎蔵などと待ち合わせしていたが、予定されていた時間より大幅に早く到着してしまっていたため、少しの間散歩に出かけていた。これにより、桂は虎口を脱した。その後、定刻通りに池田屋に到着した者たちがどうなったかをいまさら記す必要性はないだろう。 この頃桂は、池田屋に集まっていた志士たちの頭目ということで新選組からのお尋ね者となっており、芸者の幾松(のちの木戸松子夫人)の助けを得て、身に藁を纏って潜伏生活を余儀なくされた。 やがて1865年、高杉晋作により藩論が倒幕に完全に転換すると、桂は帰藩して、前藩主の毛利敬親から「木戸寛治」の名を賜った。藩にとって桂は重要な人材であり、改名させることで「桂小五郎は病気で死にました」と幕府の調査をごまかす意図があった。写真が身分証明に使われていない時代に「ある人物が死んだことにして改名させ、幕府の目を欺く」という手口はしばしば行われており、幕府もその情報が嘘であることは察知しつつも、実質は黙認していた。 余談だが、高杉晋作も幕府の調査をごまかすために「谷潜蔵」という偽名を名乗っている。 翌年には土佐脱藩浪士・[[坂本龍馬]]並びに中岡慎太郎の仲立ちで、長州藩の代表として薩摩藩の実力者・西郷吉之助(隆盛)並びに大久保一蔵(利通)と薩長同盟を締結する。当初は木戸は薩摩と同盟を結ぶことに消極的であったが、龍馬の「もはや長州、薩摩一藩の問題ではないがです。内輪もめをしている間に西洋列強に侵略され、国が滅びますきに!」と説得を受けて同盟の締結に踏み切った。 幕府をすでに見限った薩摩は幕府との戦争に備えて大量の武器を所有しており、長州もその武器を欲していた。一方、薩摩はシラス台地といって、火山灰質の土壌でコメが育ちにくい環境だったため、長州の生産する米を欲していた。これにより、互いの藩の利益が一致したことで薩長同盟がなされたのである。 &br; 新政府成立後には政府官僚として太政官に出仕し、参与、総裁局顧問、参議に就任した。名も「木戸孝允」と改めた。 1868年には土佐藩士・福岡藤次(孝弟)や福井藩士・由利公正(三岡八郎)とともに「五箇条の誓文」を起草。これによって、明治新政府の基本方針が定まり、1869年の版籍奉還や1871年の廃藩置県、ならびに1872年の地租改正などの近代的な制度改革を殆ど抵抗なく進めることができた。この一連の改革は、多くの藩が戊辰戦争により財政的に疲弊していたことや、藩主の殆どが江戸生まれであることも一助となっていた。 1871年には大久保利通や伊藤博文とともに、岩倉具視率いる使節団に参加し、諸国の憲法を研究した。 1873年に帰国してのちは政府内においてフランスで見聞した憲法や三権分立性の重要性を唱え、国民教育や天皇教育の充実に務めた。また、木戸たちが留守にしている間、政府内で盛り上がっていた西郷隆盛の征韓論には大久保や岩倉とともに反対し、これによって西郷は政府を辞して郷里の鹿児島に帰った。 憲法の重要性を幾度も訴えたが、憲法の制定を時期尚早と考えていた大久保利通との関係は悪化する一方で、1874年の台湾出兵に際してはこれに反対し、一時政府を下野した。翌年の大阪会議では、将来の立憲制採用を協議して政府に復帰したが、大久保を批判する論調で会議に望み、もはや大久保との仲は修復不可能であった。この大阪会議により、木戸は参議を辞職した。 参議を退いてからは地方官会議議長や内閣顧問などを務めたが、この頃には明治元年から抱えていた慢性的な体調不良が悪化していた。大腸がんが肝臓に転移していたのである。 1877年2月、西郷隆盛が鹿児島にて反乱を起こす。西南戦争である。そのさなか、木戸は京都に出張中であったが、体調不良が再発し病臥していた。 同年、5月26日。木戸は、うわ言のようにこう呟いた。 '''「西郷よ、もういい加減にしないか」''' そう呟くと、木戸は松子夫人の見守るさなか、永遠の眠りについた。木戸孝允、享年45歳_____。松子夫人との間には子供がなかったため、木戸家の家督は、養子の正二郎が継いだ。 やがて、木戸の死から4ヶ月後、西郷は城山で戦死し、西郷の戦死からおよそ8ヶ月後には大久保は旧加賀藩士族6人に馬車を襲撃され、命を落としている。維新の三傑は1年もしない間に、相次いで鬼籍に入ったのである。 *コメント [#za5f70dd] #comment *閲覧者数 [#r7659027] |現在|&online;| |今日|&counter(today);| |昨日|&counter(yesterday);| |合計|&counter;|